依存症が治らないのは「つながり」不足が原因!?

多くの人たちは、依存症は甘えの問題だと捉えていることが多い。
《治す気がないだけ》
《意志が弱いだけ》
《痛い目見なきゃ分からない》

でも、実は依存症は脳の病気で、
コントロールしようとしてもコントロールできない状態」になっていることが多い。
つまり依存症とは、「自分の力じゃどうしようもならないこと」とも言える。

人は誰しも、基本的には「つながり」を求めて日々生活している。
家族やパートナーをはじめ、友人、知人、共通の話題で盛り上がれる仲間など様々なコミュニティーに属しながら外との関わりを閉ざさないのが私たちの特徴ではないだろうか。

そして、そんな「つながり」が消えたり、見えなくなっている時にこそ、依存症が忍び寄ってくる。

◆一人でいても楽しくないから「酒」でも飲もうか
◆暇な時間を埋められないから「ギャンブル」でもいこうか
◆会って遊ぶ元気もないから「薬物」を使って一人で楽しもうか
◆かまってくれる人を求めて「実際はどうでもいい人」と肌を重ね合わせてしまう

結局のところ、代替品を用意したとしても「本当に満たしたいこと」が満たされなければ、寂しさやつらい感情は消えないということだ。

依存症は、一時的に個々のつらい感情を麻痺させてくれる。しかし、いくら一時的につらい感情を和らげたとしても、つながりのない癒しはあなたを救ってくれることはない。つながりの伴わない癒しを求めた結果、より沼に、より底に落ちていくことは目に見えている。

つまりは、つながりを得られなかったとしても安易に感情を麻痺させてはいけないということだ。
酒やギャンブル、薬物、異性問題など私たちの周りには癒しを与えてくれるものは多い。しかし、本当は、それらに固執していてはダメだということも私たちは実はわかっている

依存症を治すために必要なものは愛やら根性ではない。スリップ(失敗)を防ぐためには私たちには取り組まなければいけない課題があるのだ。
↓↓↓

https://yuruiizonshou.net/%e6%84%9b%e3%81%a7%e3%81%af%e4%be%9d%e5%ad%98%e7%97%87%e3%81%af%e6%b2%bb%e3%82%8a%e3%81%be%e3%81%9b%e3%82%93%e3%80%82%e6%b2%bb%e3%81%99%e3%81%9f%e3%82%81%e3%81%ab%e3%81%af%e2%97%8b%e2%97%8b%e3%81%8c/

まとめ

あなたが安定していられる場所にいることが人生をより良くする。
ただし、見直しは必要。

安易に自分の欲求を満たしてくれるものには注意が必要でありつながりにも良いものと悪いものが存在することを忘れない方がいい。
それでも私たちは、つながりを大切に、回復にはいろんな人の力を借りた方がいい。

 

参考記事

↓↓↓

https://yuruiizonshou.net/%e6%89%bf%e8%aa%8d%e6%ac%b2%e6%b1%82%e3%82%92%e6%89%8b%e6%94%be%e3%81%99%e4%bd%9c%e6%a5%ad/

外部リンク

https://www.tokyo-jinken.or.jp/publication/tj_48_feature2.html

 




間違いだらけの性依存

間違いだらけの性依存

異常なほど性欲を持っている性依存

まずは、この図式を頭に叩き込んでほしい
つまりは、性依存は性欲だけの問題ではないということ

◆窃触症(痴漢行為)、窃視症(のぞきや盗撮)、露出症
◆小児性愛、性的サディズム
◆強制わいせつ、強制性交
これらはパラフィリア障害※と言われ、性依存はその他に「強迫的行動症」を伴いながら病態が形成されていく
※パラとは、「中心」から外れている対象への性愛
性依存に関する「強迫的行動症
◆次々と性的パートナーを取り換える
◆同時に複数のパートナーと性交渉を持つ
◆性に対する「とらわれ」が行動化する
◆過度なマスターベーションやポルノ、アダルトの閲覧
いうならば、性依存とは、強迫的に性体験を追い求め、その性衝動を満たすことができないと生活そのものに障害が出てしまう病といえる
性欲の異常さが原因と捉えるのではなく、個々の生活に支障をきたすほどの行動を伴っている場合も考えられ、多くの当事者が「やめようと思っていても止めることができない」衝動を抱えている。

頭の中は常にピンク!?

性依存に対する大きな勘違いとして最もよく聞かれることだろう。

当事者の中には、「反復性」と「衝動性」が交互に出現し、禁欲的に苦悩する時期と衝動的に行動につながってしまう時期が波のように訪れる。

性行動につながる条件反射のスイッチをいかに入れないかが回復を目指す当事者たちの課題であり、「ダメだと思っていてもコントロールができなくなる自分」になる前に対策を打たなければ衝動は止まらない。

性依存は「犯罪化するタイプ」と「犯罪化しないタイプ」があり、上記のパラフィリア障害は、人ひとりの人生を壊してしまうほどの犯罪の典型だ。犯罪だとわかっていてもやめられない根底には、「依存症」という病理が含まれているが、直接的に被害者がでる性に関わる問題は、病理であろうと適切に対処していかないといけない。

「犯罪化しない性依存」は、何かを満たすために性的行為を行ったり、自傷的な性行為(プロテクトしない性行為や性感染症リスクの高まる行為)を繰り返してしまう性質を持っている。直接的に犯罪につながらないにしろ、性を契機として依存問題が悪化してしまうのがこの特徴だ。

https://toyokeizai.net/articles/-/218206?page=4

経験人数の多さで満足するものではなく、「ビッチ」と言われようとも性行動につながってしまう彼女らの背景には、性に執着せざるを得なかった環境が関係していることも往々にしてある。




性依存が満たしてくれるもの

依存の根底には「メリット」が明確に存在する
性に限らず、違法薬物やアルコールであれそれらを追い求める背景には、それでしか得られない明確な理由があるといっていい

承認欲求

性的なものは、安易に女性の承認欲求を満たしてくれるものとのつながりが強く、依存対象になりやすい。
つまりは、性を売り物とすることで気軽に価値が生み出せる。

 

特に女性は、搾取される対象として顕著で、性感染症や妊娠のリスクがあるにもかからわず、商品として消費される傾向がある。

「若さ」「容姿」「女性」が社会の中で価値を生みやすい。社会の闇とまでは言わないが、根深く女性を苦しめてしまっている要因のひとつといえる。

スリルや快感

性依存に限らず、より刺激を求める傾向が依存症者にはある。これまでと同じでは満足できなかったり、刺激に対して耐性ができる。

また、性行為に至る達成感などが自分の存在価値を確認するものになったり、性行為に至る過程そのものへの依存がある場合も。
罪悪感よりも今、生きている実感がもてることが性依存をさらに根深くさせる。

現実逃避

依存対象があることで向き合うべき現実に向き合わなくて済むという効果がある。
性に限らず依存症の背景には精神依存が多く含まれている。
「性」があるからこそ生きながらえているという人もいるぐらいだ。本気で回復したいと思う反面、生きていくために性と共存している当事者たちも多い。

https://yuruiizonshou.net/post-329/

性依存症者だからといって、相手を「人」と見ていないかと言われるとそうでもない。
ただし、「スイッチが入るまでは」という意味が大きくのしかかる。

性依存ではない人の性とは

明るく楽しく、親密な人との親密な性行為を質的に高めることができるということが一般的?な形であろうか。回数や経験人数にこだわることなく、性行為以外の楽しみを性の中でも見出すことができるということも一般的?な形なのかもしれない。

ただし、明確な正解がないのも「性」であり、一概にあなたの「性」が間違っているわけでもない。ただし、「性」にとらわれないことはひとつのキーワードになるだろう。

個人的には、最低限の紳士※でありたい。
※紳士とは、社会的に高い地位にある男性、または、礼儀やマナーに長けている者を指す。(Wikipedia)

30〜40代男性の性依存は深刻化しやすい!?

https://toyokeizai.net/articles/-/321728?page=3

働き盛りで性的に前向き・・・大賛成だと思う。ぜひ少子化に歯止めをかけていただきたい。ただし、この記事でも書かれているように、30〜40代男性の性依存はねじれやすく深刻化してしまう場合もある。自分の性の在り方について見直す必要と話し合える場を作っていくことも回復のためには必要だろう。

まとめ

性的にシラフ」であることは性依存者にとって重要なキーワードだ。ただし、現在性依存問題をまともに話し合える場や回復に向けて治療する場は極めて少ない。

そのため、性依存を抱える当事者は、共感されることなくひとりで苦しんでいることも多い。たまに共感を示す相手が現れたとしても、性をきっかけに【消費】され、【利用】されてしまうことだってある。

孤立は性を悪化させる要因にもなる。
依存していない自分は価値のない人間だと考えてしまい、さらに性に関する依存が強化されないためにも「仲間」とつながる必要がある。

慢性的な孤独感や寂しさの感情にさいなまれ、安易に満たしてくれる性に固執してしまうことは彼女らにとって生き延びる術だったりする。当事者たちの多くは、「それではいけないことも理解している」というところが性依存の根深く難しいところ。

彼女らには自尊心がないのではなく、その受け皿がザルのようにスカスカで溜まらない。だからこそ、回復のために依存対象を多く持っておくことやザルから漏れないための対策や治療が必要になってくる。




あなたの子どもをアダルト・チルドレンにしないために

アダルト・チルドレン(Adult Children:以下AC)とは、幼少期に家庭内で深い傷付き体験をした子どもたちが大人になった人のことを指す。

よく「大人のような子ども」と誤解されがちだが、ACは「幼少期大人たちの外圧によって、子どもらしい生き方を阻害されてしまった子ども」といえるだろう。

アルコールや薬物に問題を抱える親のもとで育つと、子どもは様々な葛藤の中で生きることとなる。「親が急に怒り出す」、「家庭をかえりみない」、「家族の約束などを守らない」など親中心の生活に振り回されてしまう。たとえその原因が親にあったとしても子どもはそれをなかなか主張することができず、「自分が悪いから」と問題を自分のせいにしてしまう。

たとえトラウマ(心的外傷)のような体験を親から受けたとしても、それを「親のせい」することができず「自分が悪いから」と結論付けてしまうのがACの特徴でもある。

つまり、自分自身の感情を素直に感じる力が、環境によって十分に育たなくなってしまったのだ。

素直に育つことができなかった子どもたちは、周りからすると一見「とても適応している子ども」に見えたり、「素行の悪い不良」だったり、「優等生」だったりする。

家庭内で起こる様々な問題をまるでなかったかのような振る舞いで、大人たちの目を回避したり、反対に集めたりもする。ACは、不遇とも言われる家庭環境で育った人が多く、自分のことよりも周り中心の生活を送る中で自分の能力を十分に出しきれなかった人が多い。

また、ACは恋人やパートナーを選ぶ際に「問題を抱えている人」を選ぶ傾向もある。自分の生きる環境に問題があったほう安心しやすく、そもそも「私には問題がある人が合っている」や「私がしっかりしなきゃこの人はダメになってしまう」など、自己肯定感の低い人が多いもの確かだ。

浮気や暴力、ギャンブルをはじめ、一般の人が避けるであろうと思われる相手を無意識の内に探してしまう。

呪縛から解放されるためには、過去は変えられないことを受け入れることが大切。
また、世代間の負の連鎖を止めるためにも、自分の育ってきた環境自分がこれから作っていく環境は違うのだということを意識することが生きやすさを作り出す。

自分がされたこと、どうにもできなかったこと、本当はこう思っていたことなど心の中を整理し、新しい考え方やこれからの生き方に目を向けることが回復につながる。

過去大変だった自分を十分愛してあげることが、自分の子どもをアダルト・チルドレンにしないための第一歩なのだろう。




不安解消には見捨てられ不安を振り返ろう

見捨てられ不安との付き合い方

誰しも持っている不安や傷つきの感情
喪失感や孤独感に耐え切れなくなる人もいるのではないでしょうか。
災害や人災もしかり。身近な人の死がきっかけとなり、大きな孤独感と向き合う日が来ることだってあるかもしれない。

 

そんな中で今日は見捨てられ不安にスポットを当てます。
見捨てられ不安から相手の本当の気持ちを確かめるために、「相手を試す行動に出る人」は周りにいませんか。

そこに恋愛感情が絡むと、なおさら面倒くさくなってしまう・・・
誰しもそんな甘酸っぱすぎる青春の1・2ページを持っていることでしょう。

 

試し、試され、駆け引き、綱引き。

・・・

みなさんもいくつか心当たりがあるのではないでしょうか。
(え~私は決してそんなややこしい恋愛はしていません。(棒

そんな危ういとも感じられる感情と付き合うには、少しコツがいるようです。

不安を感じながらも前に進める人とそうでない人の違いにはどういうものがあるのか。

見捨てられ不安を感じても前に進める人

相手に巻き込まれない人
不安を分離させて持っておける人
弱い部分をちゃんと人にさらけ出せる人


自他の境界線や問題の分離ができる人は、親密な関係が危機的状況になったとしても、相手に巻き込まれることなく自我を保つことが比較的可能のようです。不安を相手にさらけ出せるということは、援助希求能力(援助を適切に求められる力のこと)があるということですし、不安を溜め込まないことにもつながります。

 

見捨てられ不安を感じると反応してしまう人

白黒思考になり、相手の意見を曲解してしまう人
自分と他人の境界線が曖昧な人
自分の弱い部分をひたかくしする人

 

いわゆる早とちりしてしまい、感情のままに突っ走ってしまうタイプの人でしょう。不安を抱える器が小さく、(不安を抱える許容量が小さいという意味)不安を抱えていられない。すぐ解消したがる人がこれにあたるのかもしれません。特に弱みを人に見せられないということは、他人を信頼することが苦手だということ。自分の偏った考えが偏っているということに気付けなかったり、自他の境界が曖昧になってしまい、依存によって関係が成り立っている人は注意が必要。

 

 

 

そこには関係依存の問題が隠れている場合がある。
所詮恋愛や結婚などは、認められた共依存の成れの果てだと感じる人もいるかもしれません。確かにおっしゃる通りかもしれません。
ただ、お互いにとっていい着地点を目指すことが見捨てられ不安と上手く付き合っていくためのひとつのコツなのかもしれません。
まあ、どうせなら少しでも認められた、いい依存関係健康な依存関係を目指すことも見捨てられ不安からの脱却につながるかもしれません。

まずは、不安に振り回されないことが大切。




地雷回避の極意!避けろデートDV男

地雷回避の極意!避けろデートDV男

近年話題に挙がるこのデートDVの問題。嫉妬や束縛がエスカレートして相手を追い詰め、時として身体的・精神的・性的な暴力まで至るこのデートDV。
パートナーを選ぶ上で、この地雷は避ろ!というポイントをいくつか挙げよう。

 

監視型DV男

相手を支配するこのタイプは、相手を監視下においておかないと心配で何をしでかすかわからない。LINEやSNSなど、誰とどんなやり取りをしているかなど把握しておかないと気がすまない。本来の守られるべき個人のプライバシーの垣根を、いとも容易く越えてくる。

感情抹殺追い込み型DV男

相手を否定する言葉で相手の思考を鈍麻させ、自分の支配下に置くことでその不安を解消するタイプ。人格否定や相手の家族でさえも否定し、孤立させることで助けてくれる環境を分断させる。別れを切り出されると逆上したり、相手をコントロールすることに重きを置く。

 

攻撃型DV男

その名のとおり暴力を用いて相手をコントロールする。殴った本人ではなく、殴られた被害者があたかも悪いように操作し、その思考を麻痺させることが特徴。暴力は必ずしも被害者に向かうとは限らない。子どもや周りの人間関係を破壊することで本人を従わざるを得なくさせる。

 

甘い囁きに騙されるなハネムーン型DV男

DV後に突然優しくなる加害者。「暴力さえなければこの人はいい人だから」などと被害者が淡い幻想を描いてしまうぐらい優しくなる。しかし、その優しさは一時的なもので、緊張⇒暴力⇒ハネムーンを繰り返し負のスパイラルが形成されてしまう。

 

金銭欲求型ひもDV

まさにひも。お世話してもらいながら金銭を要求し、相手をひとりの人間とは見ようとしない。このぐらいの金額なら出してあげてもいいかなとおもわせる絶妙なラインを熟知しているこのひも男。金銭的依存はその後違う依存に進化していくことも。

 

性的接触所有物型DV男

「付き合っているのだから、性的なものは当たり前でしょ」などと自分の中の認知があたかも全てであるように振舞うこの男。パートナーをひとりの人間と認識しておらず、自己中心的な考えになりやすい。性的な合意のもと行為に至る背景には目に見えないようなプレッシャーがかかっているかも。NOを言えない女性は注意。

 

 

当事者の姿

当事者は、問題の渦中におり、自分が受けているDVに関しても鈍感になっていることが多い。そもそもこれがこの人の愛情表現だと自分を納得させるような言い訳を繰り返すこともある。デートDVなどを含めると、女性の半数以上がこのようなDV(経度から重度)の経験があるという。

 

加害者の姿

加害者は、その罪の意識が薄いのが特徴。そもそも加害者側はそれがDVであるなどと思っていないことが多かったりする。また、気付いていたとしても、「これは二人にとって良かれとしてやっていることだから」などと認知の歪みなどが存在する場合もある。

 

 

さらなる犯罪に発展しないために

DVは継続される中で、日常化したり習慣化される場合もある。それはまさに傷害に発展するものであり、当事者たちの問題を超える問題になっている。暴力を目の当たりにした子どもたちはそれ自体が虐待になることも大人は理解しておかなければならない。
最近ではスマホの位置情報がDVの巧妙な手口として注意喚起を促している情報番組もあるくらいだ。パートナーとの関係を見直す良いきっかけになるかもしれない。

以前までは、DVは夫と妻などのいわゆる家族を対象にその問題が議題に上がってきた。
しかし、現在のDV防止法は、家庭内の暴力などに限られていたものから同棲するカップルにおいても適用されるものになってきた。
それだけ普通の人間関係においてもDVは起こりうる。また、そのきっかけとしてデートDVに関しても敏感にアンテナを張っておく必要があるだろう。
リスクは常に身近にあるということ。

 


LINEなどの既読無視に対する叱責や過度の返信要求から始まり、ストーカー化するものや、リベンジポルノなどの恐喝に至るまで多くのリスクを伴っている。人間関係はなんて怖いものだろうか。

しかし私たちの生きる世界では、人を相手にしないという選択肢は今のところない。
どこに行こうと人間関係がつきまとう。
だからそこデートDVに合わないための予防策はとっておきたいものだ。

 


ちなみに、このデートDVに関するこの記事は、なにも男性に限った事ではないのが現代の社会であろう。この記事の性別を逆にして読んでみるのもこの記事を楽しむひとつの方法なのかもしれない。




摂食障害~生き延びるために食べる人たち

摂食障害について語ろうかと。
女性ならではのとても厄介な病気・・・いやっ,もう女性だからという問題じゃなくなってますよね実際。数は比較的少ないが,男性であっても関係してくるお話です。三大欲求のひとつ食べるという行為について困っている人たちのこと。わたしの知る上で,発症年齢は小学生でも稀にありますね。相対的に女性が多いのは確かで,思春期に発症しやすい。ダイエットという範囲を越えて食に対する執着というか,依存というかコントロールを失っている状態が続いてしまう。
周りが気にするようなことでもない体型や体重の微々たる変化に捉われ,生活全体が食べることに執着してしまっている状態ですね。

とある有名な施設長の言葉を借りて少し言い換えていうならば,目の前の数字に固執し,没頭することで本来の人生に向き合うことから逃げている。逃げることが悪いことではないですが,この方が言っているのは,彼ら彼女たちはどうやって生きていったらいいかわからなくなっているのではないかということ。
不合理な目的でも目の前の体重計に示された数字が事実であり,予定外のことが起こる恐怖に比べたらマシだということなのでしょう。もちろん神経性やせ症や過食症の特徴によって取られる行動は違うかもしれないが,根っこには共通する不安や恐怖感が潜んでいるのではないかと感じますね。

愛情不足で育ったうんぬんを語る人もいますが,そこを取り扱うとほんと治療に莫大な時間とお金がかかってきます。もちろんそれが根本解決だという人にはその選択肢があっても全然よいと思う。
ただ,私の体感として,問題志向になっていては解決に向かういいものが見つかりにくいことも多いのではないでしょうか。変えられるかもしれない未来を取り扱う方が変えられる可能性があるということ。ただ,摂食障害の人はその未来を見るということ自体がが苦手なのかもしれません。
ストイックで数字に縛られ囚われながら生きていることは,きっと生きにくさを感じていることでしょう。
数字の増減で一喜一憂し,食行動の異常さに嫌悪感を抱き,さらに周りの理解も得られない中では,生きているだけでもすごいことだと思うのですよ。
まさにこれも自傷行為のひとつ。
これがあるからこそ生きていられるのだと考えると,食行動の異常にも意味があり.無理に止めてはいけないものであることもわかると思います。
身近に摂食障害の人がいるとそんなこと言ってられないかもしれないのが実際のところ。しかし,自分の心の安定のために相手を変えさせることはおかしいですよね。この感覚はとても重要ですね。
つまり相手を本当に助けるためには,その人自身に力をつけてもらう必要があるということ。この心配のすれ違いはSNS上でも多く見られる気がします。こういう転移や逆転移の感情に巻き込まれると,後は関係が崩れていくばかり。 (興味のある人は精神分析の本でも読んでみるといいですよ。とてもいい睡眠導入剤になりますから笑)

同じ悩みを持つ仲間同士が語り合うことのメリットと巻き込まれることは本当に紙一重だと感じます。同じ共通の話題で盛り上がれることで相手を全てわかったような気にならないことが重要。その一面を何度も重ねていく上で,少しだけ相手を理解できるのかもしれません。私がSNS上で時たま意識してキツいことをリプライで送るのは,「この人はどのように返すのだろうか。この言葉だけで私を判断するような人なのか。」などスクリーニングにかけているのかもしれません。(自分の性格の悪さにうんざりします・・・)
だからこそ,ちゃんと受け取ってくれる相手には私なりの真剣さでツイッターで絡みにいったりするのだと思います。摂食障害について書いていると,同系列にある自傷行為についても語りたくなってきました。次回以降の話のネタについてまとめておこうと思いまうす。それではまた。

生きるために自らを傷つける者

包丁・ハサミ・カッター・ナイフ・ドス・キリ

今回はリストカットのお話です。なかなか闇が深く根も深いお話かもしれません。そのさわりだけでもまずは触れておこうかと。面白いネタ(語弊があるかも)は何度かに分けて書いていきたいですね。
あっ,久々の投稿ですね。週に二回投稿できれば御の字でしょ。

さて,わたくしツイッターなるものをやっておりまして,フォローしている人の中にはいろんな分野の研究対象がいるのです。(言い方ひどい)。その中でも多いのが,自傷行為をする人たちかもしれません。彼ら彼女らはある種自己承認欲求を満たすためツイッターという媒体を通じて外の世界に向けてレスポンスを求めながら生きているわけですが。時々思うのが,彼らはツイッターなどがあるからこそ生きていけるのかもしれないということ。まさに命の綱となっているのかもしれません。私はこの綱を悪いものとは思いません。彼らの人生には選択肢がそれしかなかったのかもと思うとその自傷行為も何か生きていく上で必要なものになっているのではないかと感じるのです。
もちろん他の解消法があるならそれに越したことはない。つまりそれ以外の解消法などを持っている私たちはこれまで生きてきた人生が割とうまく生きることができたのかも。これは哀れみの気持ちでもないし情けなどの感情ではない。彼らにはその自傷行為をせざるを得なかった過程があったのかもと考えると,時としてそのツイッターに書かれるつぶやきが愛おしく思える時があるのです。

うらやましさ

そうです。この感情がもしかしたら一番フィットするかもしれない。自傷行為をし,自らを傷つけ自分の叫びを表現している彼らが羨ましいのかもしれません。かと言って私には自身に刃物を向ける勇気?はない。する者としない者,この一線には重要な課題が隠れているのだと思うのです。
そして,した者に関してはそれが止められなくなるものになっていく・・・何かを解消できたその体験は強化され,その行動が多くなることは心理学うんぬんでよく語られることですね。まさに依存の問題だ。この問題について勉強していくと自己治療仮説なるものに出会うかもしれません。やはり彼らもそうやってこの生きづらい世の中を必死に生き,自ら傷つけながら自らを治療しているのかもしれません。意図しない事故で自傷がその域を超えてしまうこともよくあること。彼ら彼女らがそれと変わるものに意味を見いだせるといいな。そして私自身も。

はぁ。もう月曜日だ。今週乗り切れば長いGW。あと少しだけ頑張ろう。いやっ,今日月曜日を乗り切るだけの頑張りでいいか。