間違いだらけの性依存

間違いだらけの性依存

異常なほど性欲を持っている性依存

まずは、この図式を頭に叩き込んでほしい
つまりは、性依存は性欲だけの問題ではないということ

◆窃触症(痴漢行為)、窃視症(のぞきや盗撮)、露出症
◆小児性愛、性的サディズム
◆強制わいせつ、強制性交
これらはパラフィリア障害※と言われ、性依存はその他に「強迫的行動症」を伴いながら病態が形成されていく
※パラとは、「中心」から外れている対象への性愛
性依存に関する「強迫的行動症
◆次々と性的パートナーを取り換える
◆同時に複数のパートナーと性交渉を持つ
◆性に対する「とらわれ」が行動化する
◆過度なマスターベーションやポルノ、アダルトの閲覧
いうならば、性依存とは、強迫的に性体験を追い求め、その性衝動を満たすことができないと生活そのものに障害が出てしまう病といえる
性欲の異常さが原因と捉えるのではなく、個々の生活に支障をきたすほどの行動を伴っている場合も考えられ、多くの当事者が「やめようと思っていても止めることができない」衝動を抱えている。

頭の中は常にピンク!?

性依存に対する大きな勘違いとして最もよく聞かれることだろう。

当事者の中には、「反復性」と「衝動性」が交互に出現し、禁欲的に苦悩する時期と衝動的に行動につながってしまう時期が波のように訪れる。

性行動につながる条件反射のスイッチをいかに入れないかが回復を目指す当事者たちの課題であり、「ダメだと思っていてもコントロールができなくなる自分」になる前に対策を打たなければ衝動は止まらない。

性依存は「犯罪化するタイプ」と「犯罪化しないタイプ」があり、上記のパラフィリア障害は、人ひとりの人生を壊してしまうほどの犯罪の典型だ。犯罪だとわかっていてもやめられない根底には、「依存症」という病理が含まれているが、直接的に被害者がでる性に関わる問題は、病理であろうと適切に対処していかないといけない。

「犯罪化しない性依存」は、何かを満たすために性的行為を行ったり、自傷的な性行為(プロテクトしない性行為や性感染症リスクの高まる行為)を繰り返してしまう性質を持っている。直接的に犯罪につながらないにしろ、性を契機として依存問題が悪化してしまうのがこの特徴だ。

https://toyokeizai.net/articles/-/218206?page=4

経験人数の多さで満足するものではなく、「ビッチ」と言われようとも性行動につながってしまう彼女らの背景には、性に執着せざるを得なかった環境が関係していることも往々にしてある。




性依存が満たしてくれるもの

依存の根底には「メリット」が明確に存在する
性に限らず、違法薬物やアルコールであれそれらを追い求める背景には、それでしか得られない明確な理由があるといっていい

承認欲求

性的なものは、安易に女性の承認欲求を満たしてくれるものとのつながりが強く、依存対象になりやすい。
つまりは、性を売り物とすることで気軽に価値が生み出せる。

 

特に女性は、搾取される対象として顕著で、性感染症や妊娠のリスクがあるにもかからわず、商品として消費される傾向がある。

「若さ」「容姿」「女性」が社会の中で価値を生みやすい。社会の闇とまでは言わないが、根深く女性を苦しめてしまっている要因のひとつといえる。

スリルや快感

性依存に限らず、より刺激を求める傾向が依存症者にはある。これまでと同じでは満足できなかったり、刺激に対して耐性ができる。

また、性行為に至る達成感などが自分の存在価値を確認するものになったり、性行為に至る過程そのものへの依存がある場合も。
罪悪感よりも今、生きている実感がもてることが性依存をさらに根深くさせる。

現実逃避

依存対象があることで向き合うべき現実に向き合わなくて済むという効果がある。
性に限らず依存症の背景には精神依存が多く含まれている。
「性」があるからこそ生きながらえているという人もいるぐらいだ。本気で回復したいと思う反面、生きていくために性と共存している当事者たちも多い。

https://yuruiizonshou.net/post-329/

性依存症者だからといって、相手を「人」と見ていないかと言われるとそうでもない。
ただし、「スイッチが入るまでは」という意味が大きくのしかかる。

性依存ではない人の性とは

明るく楽しく、親密な人との親密な性行為を質的に高めることができるということが一般的?な形であろうか。回数や経験人数にこだわることなく、性行為以外の楽しみを性の中でも見出すことができるということも一般的?な形なのかもしれない。

ただし、明確な正解がないのも「性」であり、一概にあなたの「性」が間違っているわけでもない。ただし、「性」にとらわれないことはひとつのキーワードになるだろう。

個人的には、最低限の紳士※でありたい。
※紳士とは、社会的に高い地位にある男性、または、礼儀やマナーに長けている者を指す。(Wikipedia)

30〜40代男性の性依存は深刻化しやすい!?

https://toyokeizai.net/articles/-/321728?page=3

働き盛りで性的に前向き・・・大賛成だと思う。ぜひ少子化に歯止めをかけていただきたい。ただし、この記事でも書かれているように、30〜40代男性の性依存はねじれやすく深刻化してしまう場合もある。自分の性の在り方について見直す必要と話し合える場を作っていくことも回復のためには必要だろう。

まとめ

性的にシラフ」であることは性依存者にとって重要なキーワードだ。ただし、現在性依存問題をまともに話し合える場や回復に向けて治療する場は極めて少ない。

そのため、性依存を抱える当事者は、共感されることなくひとりで苦しんでいることも多い。たまに共感を示す相手が現れたとしても、性をきっかけに【消費】され、【利用】されてしまうことだってある。

孤立は性を悪化させる要因にもなる。
依存していない自分は価値のない人間だと考えてしまい、さらに性に関する依存が強化されないためにも「仲間」とつながる必要がある。

慢性的な孤独感や寂しさの感情にさいなまれ、安易に満たしてくれる性に固執してしまうことは彼女らにとって生き延びる術だったりする。当事者たちの多くは、「それではいけないことも理解している」というところが性依存の根深く難しいところ。

彼女らには自尊心がないのではなく、その受け皿がザルのようにスカスカで溜まらない。だからこそ、回復のために依存対象を多く持っておくことやザルから漏れないための対策や治療が必要になってくる。




「NO」が言えないのには訳がある!?依存症者はなぜ押しに弱いのか

嫌ならハッキリと「ノー」と言えばいいのに(怒)

でもね、世の中には嫌だと感じながらも「ノー」が言えない人たちがいるのですよ!
彼らには彼らなりの言えないワケがあるのです!

相手の要求をそのまま受け入れてしまうワケ

親やパートナー、友人知人に何かしらお願いされる機会は割と多い。
「ついでにお茶買ってきてよ」
「テスト前にノート貸してくれない?」
「日曜日ちょっと付き合ってくれない?」
「アマゾンギフト券ください」・・・これは断れる。

相手の要求に答えたい思いはあるものの、どうしても嫌だと感じる場合、意思表示として私たちは「ノー」を示すわけだが、「ノー」は罪悪感と仲良しだ。

心の底では相手の要求はなるべく断らず叶えてあげたいと思う反面、断ることで感じる罪悪感に悩まされる人たちが一定数いる。

そのような人たちにとって、罪悪感は非常に耐え難い感情とも言える。

つまり、耐え難い感情に耐えきれなくなり、「イエス」が結果として示される。要するに彼らの「イエス」は本当の意味での「イエス」ではない場合があるということ。

「ノー」が言えない背景

■そもそも断ることが悪いことだと感じている
■「ノー」と言うことに慣れていない
■「ノー」と言えるような環境で育ってこなかった
そもそも断ることが悪いことだと感じている
断ることで相手を否定してしまうように感じる人はまさにこれだ。
断ることを悪いことだと認知している場合があり、自分がどうかよりも相手からの評価が気になってしまい断れない。
「ノー」と言うことに慣れていない
「頼まれたら助けてあげましょう。」
「人に優しくしてあげましょう。」
など、他者との調和・協力関係が美徳と評価されやすい日本の教育の中では、断り方に関する具体的な教育はほとんどなされていないのが現状だ。断り方を学ぶ機会がないまま大人になった結果、選択肢は「受け入れる」しかなくなってしまう。

「ノー」と言えるような環境で育ってこなかった
人間関係の基本は親との愛着関係の中で形成される。
しかし、その基本が安定していない環境では子どもは安全に断ることができない。

つまり、子ども時代に自分の意思表示「ノー」を言ってきた経験こそが今のあなたを形成する。

自己中心的な関わりは例外だが、主体的に自分の意思表示を尊重された経験が少ない場合もまた「ノー」が言えなくなってしまう。

まとめ

この記事では、何もかも断ればいいと言っているわけではない。
相手との関係を考慮して、自分をその中である程度出せるのであれば妥協点として受け入れることも大切だ。

ただし、無理をして「イエス」を言い続けることで自分自身を追い詰めることはやめておいた方がいい。

特に相手の顔色を伺いながらの「イエス」はあなた自身をどんどん窮地へと追い詰める。「ノー」の意思表示は決して悪いことではないし、それで壊れてしまう関係ならば、きっとそれ以前に破綻している関係なのだと思う。

人間関係で悩んでいるときは特に視野が狭くなる。依存症患者の中には視野が狭くなることと同時に見捨てられ不安から「ノー」が言えなくなる人もいる。

自分にとってマイナスな関係性であったとしても求められることは価値のあることと頭で理解してしまう。そのため相手の要求を受け入れてしまいやすくなる。

新しい人間関係を作ることは非常に大変な作業。それゆえ既存の人間関係に固執してしまう人も注意が必要だろう。

あなた自身を大切にしてくれる人間関係、コミュニティーにいる方がきっとあなたらしくいられるだろう。

その方が生きづらい世の中がちょっとだけ生きやすくなるかもしれない。

なんか書いてて思いましたが、依存症者に限らず、多くの人に当てはまりそうですよね今回の記事。

あ〜でも見捨てられ不安から「イエス」って言っちゃう感じはわかる気がするかも。

 




不安解消には見捨てられ不安を振り返ろう

見捨てられ不安との付き合い方

誰しも持っている不安や傷つきの感情
喪失感や孤独感に耐え切れなくなる人もいるのではないでしょうか。
災害や人災もしかり。身近な人の死がきっかけとなり、大きな孤独感と向き合う日が来ることだってあるかもしれない。

 

そんな中で今日は見捨てられ不安にスポットを当てます。
見捨てられ不安から相手の本当の気持ちを確かめるために、「相手を試す行動に出る人」は周りにいませんか。

そこに恋愛感情が絡むと、なおさら面倒くさくなってしまう・・・
誰しもそんな甘酸っぱすぎる青春の1・2ページを持っていることでしょう。

 

試し、試され、駆け引き、綱引き。

・・・

みなさんもいくつか心当たりがあるのではないでしょうか。
(え~私は決してそんなややこしい恋愛はしていません。(棒

そんな危ういとも感じられる感情と付き合うには、少しコツがいるようです。

不安を感じながらも前に進める人とそうでない人の違いにはどういうものがあるのか。

見捨てられ不安を感じても前に進める人

相手に巻き込まれない人
不安を分離させて持っておける人
弱い部分をちゃんと人にさらけ出せる人


自他の境界線や問題の分離ができる人は、親密な関係が危機的状況になったとしても、相手に巻き込まれることなく自我を保つことが比較的可能のようです。不安を相手にさらけ出せるということは、援助希求能力(援助を適切に求められる力のこと)があるということですし、不安を溜め込まないことにもつながります。

 

見捨てられ不安を感じると反応してしまう人

白黒思考になり、相手の意見を曲解してしまう人
自分と他人の境界線が曖昧な人
自分の弱い部分をひたかくしする人

 

いわゆる早とちりしてしまい、感情のままに突っ走ってしまうタイプの人でしょう。不安を抱える器が小さく、(不安を抱える許容量が小さいという意味)不安を抱えていられない。すぐ解消したがる人がこれにあたるのかもしれません。特に弱みを人に見せられないということは、他人を信頼することが苦手だということ。自分の偏った考えが偏っているということに気付けなかったり、自他の境界が曖昧になってしまい、依存によって関係が成り立っている人は注意が必要。

 

 

 

そこには関係依存の問題が隠れている場合がある。
所詮恋愛や結婚などは、認められた共依存の成れの果てだと感じる人もいるかもしれません。確かにおっしゃる通りかもしれません。
ただ、お互いにとっていい着地点を目指すことが見捨てられ不安と上手く付き合っていくためのひとつのコツなのかもしれません。
まあ、どうせなら少しでも認められた、いい依存関係健康な依存関係を目指すことも見捨てられ不安からの脱却につながるかもしれません。

まずは、不安に振り回されないことが大切。