テリー伊藤が槇原敬之に放つ「彼今、情けないじゃん」に感じる違和感

今朝のサンデー・ジャポンを見ていて、テリー伊藤が槇原敬之被告の保釈に対するコメントに
「槇原くんは、情けなければ情けないほどいい曲を作る。」
彼は今情けないじゃん

 

最近のマスコミやワイドショーは、なぜこんなにも人を叩くことが好きなのだろうかと考え出すとテレビの前で頭が痛くなってきた。

いつもと同じ警察署の前で、
いつもと同じ報道陣に囲まれ、
誰に向けてかわからない「申し訳ありません」の言葉を何度もテレビで繰り返して流し、
マスコミやコメンテーターは叩くだけ叩いてそれ以降のケアなどには興味を持たず、
憶測とよくわからない芸能関係者の言葉をもとに、叩けるところを叩いている姿は、まさに「いじめ」の構図そのもののように見えた。

 

この事件は、2年前の覚せい剤取締法違反の容疑で起訴された珍しい事件でもある。さらにいえば、本人から採取した尿からは、違法薬物の反応は陰性だったことからも起訴に至るには珍しい事件でもあろう。所持や共同所持等具体的な内容は今後徐々にわかるだろう。

背景には、「ラッシュ」等の危険ドラッグの流通量の急激な増加などももしかすると関係しているのかもしれないが、ワイドショーなどでは具体的に取り上げず、釈放され頭を下げている場面の繰り返しばかりだった。事実ワイドショーなどでも具体的な経緯などには触れておらず、留置されている間に作詞したとか、個人的なパートナーに関するものが中心で、わざわざ日曜日の朝から取り上げる内容でもないのではと思う浅い情報ばかりだった。

ただ、「マッキー頑張れ~」、「応援するぞ~」などの声援はきっと槇原敬之さんに届いているだろう。

槇原敬之さん自身の依存症に関する回復が、私たちにはどの程度進んでいるのかはわからないが、ぜひ多くの社会資源を活用してひとりで問題を抱え込まないようにしてほしい。そしてまた才能に満ちた曲を聞きたい。




自分を成長させる【恥】体験を語ることの意味

【恥】感情との付き合い方

「旅の恥はかき捨て」という言葉があるが、あれは恥をかいても大丈夫だと言ってるわけではなく、旅を理由に本来出せない願望を「言い訳のできるもの」にしてしまう大人の汚さだと感じる。

本当にしたいことであれば素面(しらふ)ですればいい。

 

ただ、恥をかきたくないというその思いはどこか共感できるものがある。誰しも失敗なんてしたくないし、できることなら人前で恥はかきたくないもの。だからそこ「恥」という感情はとても扱いづらい感情でもある。特に人の目ばかり気にしている日本人ならなおさらだろう。

 

逆に考えれば「恥」の感情をコントロールできさえすれば、多くの人は自分を自由に表現したり他者の目ばかり気にして生活しなくてすむ。そう考えると「恥」の感情はあなた自身で取り扱えるものにしておいたほうがいい生き方ができるのではないか。

秘密にひっそりと

「こんなこと誰にも言えない」
「本当の自分なんて誰も受け入れてくれない」
「こんなのはきっと自分だけだ」など恥につながる心のセリフを私たちはよく頭の中で考える。

 

結論を言えば
【人間関係で発生する感情は、人間関係の中でしか癒されない。】


つまり「恥」の感情は、適切に、また安全に出せる場が必要であるということ。受け入れられたり、共感してもらったり、否定されないということだけでも大きな意味を持つ。

依存症者の多くは、過去に壮絶な「恥」体験を繰り返してきていることが往々にしてある。それらを適切に表現できる場は、世間にはほとんどないと言っても過言ではない。

あるとすればカウンセリングや自助グループぐらいだろう。しかし、多くの依存症者はこの自助グループにつながるまでに多大な時間を費やしてしまう。

以前自助グループの記事でもかいた
オープン・スピーカーズ・ミーティング のように、助けを求めることが苦手だからこそ依存の問題は複雑化する。その人の捉え方や問題の大きさにもよるが、つながるまで数十年かかる人もいるぐらいだ。それほど「恥」体験を話すことはハードルが高い。

「恥」を受け入れられるものにするためには、もちろん時間がかかる。当事者が「恥」をどのように捉え、どう解消していくかが課題となり、あなたの問題は○○だから軽症だと一概に決め付けることはできない。

自助グループなどのミーティングの役割や効果は、まさにこの点に尽きるだろう。誰にも話せない本音、それを黙って聞いてくれる環境が自助グループには存在し、またこれまでも存在し続けてきた。

」と表現していくのか、自分が歩んできた轍(わだち)と捉えるのか、決めるのは自分自身であり、決して経験はなかったことにはできない。話すこと、吐き出すことこそ回復には必要であり、自助グループなどにつながってぜひ安全に話せる場を確保していってほしいと感じる。それこそ【恥】体験を語ることの意味だと思う。




ギャンブル依存症は病気か自己責任か。保険適用のメリットとは。

結論としては、ギャンブル依存症は病気といって間違いない。

日本には、法律によって定められた競馬や競艇、競輪、オートレースといった地方公共団体による公的に認められたギャンブルが存在する。また、現在カジノを含む統合型リゾート施設の開業に向けて、都道府県が誘致に名乗りをあげている最中にギャンブル依存症の治療を保険適用させる動きが活発になってきている。

依存症治療で有名な国立病院機構久里浜医療センターの調査では、強い依存性が疑われるギャンブル依存症患者の暗数は全国で320万人にも上るとも言われており、日本人のギャンブルに対する捉え方を見直す時期に来ているのかもしれない。

最近は、店頭ののぼりやCMが少なくなったものの、日本にはパチンコやパチスロといった法律的には賭博に含まれないグレーな遊戯を重ねる事によって日々ギャンブル依存症者が量産されているともいえる。法律の規制の範囲の中での遊戯だからといって油断は禁物なのだ。

■ギャンブル依存症は行為障害に分類され、診断基準には、
①興奮を得たいがために掛け金の額を増やす
②その行為を中断させられると落ち着きがなくなったりイライラしたりする
③制限をするにも関わらず、その枠を超えてしまう行為が伴う
④感情が一時的に楽になる機能をもつ
⑤嘘や言い訳が多くなる
⑥日常生活に支障をきたす程にコントロールを失ってしまう
などの特徴が、数個あるだけでも病的ギャンブルになってしまう。
(診断基準の詳細は省略

最近では、ニュースなどで加熱過ぎるほど取り上げられる覚せい剤問題を筆頭に、アルコールやギャンブル、ゲームといった多くの依存問題に焦点が当てられている。次の対象になるのは、潜在的な依存症が多いとされるギャンブルに向かう世論の流れはある意味至極まっとうな流れともいえるだろう。

自己責任では語りきれない当事者たちの苦しみ


先程もいったように、ギャンブル依存症は病気と扱って間違いない。一旦依存症になってしまうと、その行為を止め続けない限り回復していくことは困難になる。ブレーキが壊れた車が壁にぶつかるまで止まらないことと同じように、回復に向かう当事者たちは、自分のギャンブルが病的であることを理解している。

一度行動に走ってしまうと外からの力が働かない限り、もう止められなくなってしまう。まさにここに病気の根深さが感じ取れるだろう。

お金があればあるだけ使い、なければ金策に走り、ギャンブルに勝てばもっと勝ちたくなり、負ければその負けを取り返すかのように勝負にこだわる。
まさに、こういった過程で病的賭博が形成されていくのだろう。

回復するためには治療が重要

未だに依存症は自分の意志で何とかやめていけると思っている社会が多く存在する。実際に強い意志でやめ続けている人達が居ることも事実であるが、当事者たちは意志だけではどうにもならないことを理解している。

日常生活において、彼らの前には、その行動(ギャンブル)につながるきっかけが山ほど積み上がっているのだ。コンビニの雑誌しかり、一万円札を見るというそんな単純なきっかけでさえ欲求が入ってしまう。

それらの欲求と戦うには意志の強さだけではどうにもならない。
専門治療施設につながることや自助グループへの参加が回復には大きな助けとなるにも関わらず、当事者やその家族などは意志の力に固執し、依存問題を更にこじれさせてしまうことが多い。

社会資源についての理解が乏しいだけではなく、依存問題を自分たちで収めようとすればするほど問題は複雑化する。
精神保健福祉センター
そもそも↑の様な社会資源を知らない人も多く、そこにたどり着くまでに多くのものを失い、つながる気力すらなくなってしまうのだ。

保険適用は賛成?反対?


タイトルにも書かれているとおり、依存症治療における保険適用をどう考えていくかが課題となっている。

国民の大事な税金なんだぞ!自己判断でギャンブルを楽しんでいる奴らになんで税金が投入されなければいけないんだ(怒)

まぁ、おっしゃる怒りはなんとなく理解できる部分もある。しかし、今回の医療保険適用に関しては、「集団治療プログラム」などを対象に検討が進む。

今後この「集団治療プログラム」の定義も含めて議論がなされるのだろうが、いわゆる院内のミーティングをより構造化し、治療として取り入れる流れが厚生労働省としてあるのかもしれない。

社会の中で、依存症の回復に向けて、自助として活動している多くのグループ(AA、NA、GA、SA、OA、EA、CoDA)が回復に大きな成果を出しているモデルを、今まで以上に医療の中に取り入れ、回復の一助として活用する流れには大いに賛成できる部分はある。
同時に、自助グループであることの強みがなくなってしまわないかという不安もこの保険適用を考える上で配慮すべき点だと個人的に感じる。

これまでの依存症治療に関しても、保険適用の範疇であったものの、病院内における治療プログラムは施設に委ねられている部分が多かったといえよう。特に、精神科等の診療報酬加算の算定に関しては、複雑なものが多く、治療プログラムを構造的に行っている専門病院は極めて少ない印象がある。

保険適用のメリットには、精神科などで安定した枠組みの中で治療につながれる患者が増え、依存に関する社会の理解が進むことが予想される。潜在的な病的ギャンブル依存症者にもスポットライトが当てられ、相談機関や専門病院が増えるだろう。

特に、当事者の家族は相談できる機関が増えることで依存問題をひとりで抱え込まなくて済むことは大きなメリットになる。ギャンブルに関するブレーキが壊れているのだということを理解した上で当事者と向き合い、「底つき」が幾分か早くなるだろう。

また、精神科などでは、外部協力者として自助グループのメンバーが病院などに訪問し、メッセージを届けるなどの活動をしている。私自身地域で行われている一般向けのミーティングに参加した経験もあり、ミーティングを当事者やその家族に運ぶことの意味を徐々に体験を聞くことで理解してきた。

オープン・スピーカーズ・ミーティング
今、回復し続けている当事者たちだからこそ語れるメッセージが病院内に入ることは、依存症治療の大きな前進ともいえる。

では、残された課題とはなんだろうか。
専門医やコ・メディカルの育成課題や病院による患者の悪質な囲い込み問題、自助グループへの橋渡しなどの連携課題、社会復帰を見据えた外来治療の構造化など考え出せば多くの課題が浮かび上がる。

まさに、保険適用に向けてこれらの課題を丁寧に説明できるよう議論すべきであり、慎重な検討と現場の声をすくい上げる必要があるだろう。

まとめ

カジノ事業を誘致するための小手先の依存症治療の保険化だけは避けてほしい。その他にもTwitterなどでは、タバコやギャンブル依存症は保険の対象になるにも関わらず、不妊治療や妊娠出産の保険適用に関してまず手厚い施策が必要なのではないかというツイートがバズっている。

また、ギャンブル依存症だからとひとくくりにまとめてしまうと問題の本質を見失ってしまう。依存問題の背景にある疾患にも目を向け、主治医をはじめとするコ・メディカルとも連携していくことが大事な過程であり、その先にある自助グループにつながれるまでの流れをモデルにするなど、今まさに回復し続けている人の力が大きな財産になるだろう。

もちろん依存症は病気であり、治療すべき対象ではあるものの、限りある財源の中から優先順位や今やるべきことをまともな大人たちが議論する必要があるだろう。




依存問題のカミングアウトにどう向き合うか

友人、家族、職場、あなたの依存問題についてしっかり話し合える相手はいますか?以前の記事でも書いたとおり、私個人の意見としては、たとえその依存が違法なものであったとしても、通報よりも治療に結び付けることが最善策だと思う。
そのための第一歩としてカミングアウトをいかに上手くして、周りの協力を得るかが回復の鍵となる。


依存症は関係を破壊させるもの

わかりやすいところで薬物依存を始め、ギャンブル(違法・合法)、アルコール、買い物、恋愛、性、関係、物質、精神など様々なものに依存しながら私たちは生きているのは紛れもない事実。これぐらい大丈夫と思っていたものが、その依存中心の生活を送ることになってしまうのが依存症の怖いところ。まさに、本来の自分の生き方ができなくなってしまうこと。大切にしたかったものを簡単に破壊してしまう。本来大切にしたかった優先順位が依存によって変わり、生活がその依存症中心の生活になってしまう。
きっと治療につながるまでにいろんなものを失い、周りに迷惑をかけてしまうかもしれない。しかし一番の犠牲者は自分であることも確か。治療に本腰を入れるときあなたは何にすがればいいのか。はたまた、すがらずに自分で生きていくためにはなにか必要になるか。その時、あなたはどうやってカミングアウトすればいいののか。
依存していることを話すのは負けたような気がしてどうもカミングアウトできる気がしないあなたは少し足を止めていただきたい。



カミングアウトはチャンスか甘えか

家族や周りの人間に依存問題について理解と助けを求めることは自分の問題を認める第一歩となり、依存問題と決別する最大の機会といってもいいだろう。これまで嘘で固めていた偽りの生き方をじっくり認め、本来の生き方を取り戻す大きな一歩でもある。
「もう嘘をつかなくて済む、肩の荷が下りた」など、これまで抱えていた負担がいかに大きかったか実感するだろう。依存症は否認の病であることはよく知られている。だからこそ自分の依存問題を認めるところから始めてみるのもいい。カミングアウトすることで問題解決の一歩が始まるといってもいいだろう。勇気のいる行動であるが、カミングアウトは回復のチャンスというわけだ。

その反面、依存症は甘えだと言う意見も一般にはよく聞く。
「本人の自己責任だ。意志が弱いからそうなったのではないか。甘えでしょ。」などの厳しい指摘があるのも事実。きっと当事者たちは、このような声掛けによってカミングアウトする気持ちすら削ぎ落とされてしまうのだろう。

依存症者は周りに何を期待するべきか

カミングアウトする側は、周りに多くを求めないほうがいい。
なぜなら本当に理解を示してくれる人間は極端に少ないからだ。5人いれば4人は否定してくる、そう思うぐらいがちょうどいい。
私たちが探すべき相手は残りの1人だということを忘れてはいけない。
なにはともあれ、カミングアウトできた自分を褒めてあげることから始めてみよう。きっと勇気のいることだろうし、誰にでもできるわけではない。周りにどう説明したらいいか分からず、眠れぬ夜を何度も過ごしただろう。時には、カミングアウトのことを考えすぎて、日常生活に支障をきたしてしまう人もいる。

それほどまでにカミングアウトというものはエネルギーを使う作業である。
告白によって人間関係が変化したり、友人・知人を失ってしまう人もいるかも知れない。それほどのリスクを踏まえてまで告白した自分を十分褒めてやるほうがいい。

まずは誰にカミングアウトするか

誰にでもカミングアウトすればいいという問題でもない。上述したように、理解者から順を追って告白することがコツといえよう。身近であればあるほど勇気とエネルギーが必要になってくる。SNSなどを活用しながらまずは仲間を見つけることから始めてもいい。
自助グループなどきっかけに、自分の抱える問題を話せる場を必ず持っておくことが回復には大切だ。依存症者にとって否定されない、攻撃されない体験は依存からの回復過程では重要な体験になる。話せてよかったと思える体験を積み重ねることが良質のカミングアウトにつながるのだと思う。

けれども期待はしてはいけない。

家族にカミングアウトしたところで劇的に何かが変わるなんてほとんどない。
受け入れてくれる人などほとんどいないと頭の隅においておきながら、確実に仲間を増やしていってほしい。

一人で依存問題を抱えすぎず、『自力(じりき)』ではなく『他力(たりき)』を知ることも大切。



よく聞く依存症回復の為の12ステップってなあに?

依存症治療につながった人たちなら一度は聞いたことがあるこの12ステップという言葉。なんかややこしそうで、宗教っぽくて、とっつきにくいなと私が感じたのも正直なところ。しかし、どうやら歴史もあるようで、回復の手助けになってくれるこの12ステップ。果たしてこの記事を最後まで見た人たちは、どのように感じるのだろうか。

AA(アルコホーリクス・アノニマス)


自助グループのおおもととなる当事者たちの団体。匿名性が重視され、団体といっても団体としての意見を持たない回復の為の自分たちが運営する集まりとして位置づけられる。
アルコールをやめる(断酒)するために、お互いの飲酒体験を語り合い、今日一日断酒していくことだけを目標に集まる仲間たち。
それぞれの体験に口出しするのではなく、言いっぱなしの聞きっぱなしのミーティングは今日もどこかで行われている。1935年にオハイオ州で始まったのがきっかけで、脈々と全国各地で行われている当事者たちの活動。多くの依存問題に共通する12ステップに各々が向き合っていく作業。12ステップこそが回復への第一歩であり、多くの回復者たちがこの問題に取り組んできた。AAの「アルコホーリクス・アノニマス(通称ビックブック)」にはその内容が詳しく示されている。


多くの依存症者がつまずくステップ1


この記事では12ステップ全部は取り上げない。
なんならステップ1しか取り上げない。
多くの人が、まずこのステップ1を乗り越えられないからだ。

「いやいや、ステップ1からつまずくなんてやる気あるの?ステップ1なんて最初の第一歩でしょ。」
こう思われる方が多いのも事実。
しかし、思った以上に難しいのがこのステップ1。

ステップ1
『私たちはアルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。』

自分が依存症であることを認める作業こそが、最初の一歩であることを示している。ただ、自分が依存症であることを心底認めるということは辛い作業でもある。

否認の病といわれる依存問題


誰しも依存症だと言われればいい気持ちにはならないだろう。
「自分は愛好家だから大丈夫。うまくコントロールできている。もっとひどい人を私は知っている。」などいくつもの依存を認めない言い訳を探してくるだろう。

ただ、本当の依存症患者は理解していると思う。

ステップ1で示されている様に、自分の思い通りの生き方ができなくなっていることに。依存症は否認の病であり、自身の問題性を認めるところから回復が始まる。



Q,ではなぜ依存症者は否認してしまうのか。
それは依存を認めてしまうと、全てを否定されたかのように感じる人も多いからではないかと私自身は感じる。認めることが全てを否定することにつながるのであれば、やはり認めたくない気持ちもややわかる。
だからそこステップ1が一番つまずきやすい。
自分の依存に関する問題を心底認められている人は回復に向かいやすい。
依存問題を目の前に「自分は無力だ。」と言えるかどうか。
回復に身を委ねられるかが12ステップの最初の壁だと思う。

ところで、この記事を読んでいるあなたは、自分の依存に関して何を思いますか?




摂食障害になる子ってどんな子?

不合理とも言える食行動を繰り返しながらも、その行為に依存し、命を危機的な状況にまで自ら追い込んでいる摂食障害者には、なにか共通するものがあるのではないか。また、摂食障害になる子の特徴には、どういう背景が隠されているのか知りたくありませんか?

 

性格と摂食障害

多くの摂食障害や依存に関する論文では、ある程度の通説と呼ばれるものがあります。そしてその特徴のひとつとして、「昔から手のかからなかった真面目な子」が挙げられます。なぜ真面目なのに病気になっていくのか。そもそも、真面目な性格と病気って関係あるのか。などと感じる人も多いでしょう。ここで書かれている真面目さにはどのような意味が含まれているのでしょうか。今回は、摂食障害になりやすい人の特徴と、その原因について触れていくことになるでしょう。
食べることで一体何を満たしていたのか、果たして本当に満たしたかったのは食欲なのか。食べ続けることは簡単でもあり苦しいことでもある当事者に共通する課題とは何なのか。
異常な食行動に固執してしまう背景にはどんな機能が働いていたのかに迫ります。

 

どういう過程で摂食障害が展開するのか

主に摂食障害は、10代~20代前半の女性に発症することが多く、男性の10倍ほどの発症率が示されている。今でこそSNSなどで公言する人もいるが、昔は今以上に隠れてこっそり生き抜いていたのだろう。
過食症を例に挙げると、その食べる量は通常の買い物とは思えないほどの量を購入する傾向がある。ひとつの家族が菓子パンなどを購入する際、食パンや人数分の菓子パンを買うのが一般的なものだとしたら、過食症患者が買う菓子パンの量はその何倍にもなる。もちろん人それぞれ過食の量に差はあるものの、買い物かごいっぱいの菓子パンは通常ではありえない違和感を感じる。まさかこの量を一人で、また1食で食べてしまうなどと誰も想像できない。

 

当事者たちは病識を持っているものが多く、知的にもやや高い印象を私個人は持っている。病識(自分が病気であるという認識)をもち、問題を大きくさせないように努力を重ねながら生活している人たちを私は知っている。そして、自分の食べる量が異常であるという認識も充分持っている人が多い。

もにも関わらず、発症初期段階から精神科に関わる割合は少ない。
以前取り上げた記事にも、過食嘔吐に共通する【他人を頼れない病い】が根底にあるのかもしれない。
カショオ女子 ~摂食障害にみられる関係依存の問題

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食欲には抗えない

過食のケースについて考察すれば、彼らの食欲は一種の囚われを感じさせるほどの勢いがある。
詰め込むまさにそんな感じだ。
ひとつひとつの食材を味わって食べているようにも感じるが、むしろ何か感じることを鈍麻させるかのごとく食べ物を次から次へと胃に押し込める。食欲のスイッチが一度入ってしまえば止まらなくなる。自分の意志ではもうどうにもならないほど『食べたい』思いと『本当はもう食べたくない』というアンビバレント(両価的)な感情に支配され、スーパーなどに向かってしまうのだ。

摂食障害者の中には、『どうせ吐くから』と言って万引きする者もいるが、物事の善悪を理解している人や社会性に優れている人も圧倒的に多い。
しかし、食費が馬鹿にならないのも確かで、当人たちはスーパーなどの半額の時間帯を考慮に入れながら食べる活動を維持させる。

 

食べることで満たされるもの


感情に鈍感な人というよりは、感情を表に出さない人が多いのではないだろうか。多くの問題を自分だけで抱え込み、誰にも頼らず、甘えず、本当は助けを求めたい感情を食べ物で押し込めているのではないだろうか。
まさに、『真面目』そのもの。
本来違った形として出てきて欲しいこの真面目さが、食欲とつながってしまっていることこそが問題をより複雑化させる。
食欲が満たされると安心感や不安な気持ちが軽くなる。一時的であろうが、問題を棚上げできるという効果こそが当人たちの求めていることだったりする。

つまり、癒してもらうためには過食することが必要だったということになる。依存症問題に出てくる『自己治療仮説』がまさにこれにも当てはまるだろう。
過食を維持できているからこそ生きていられるということ。

病気を理解していない周囲の人間にとっては、ただ食べて吐いているだけに感じるだろうが、この行動にも重要な意味が隠されている。

食べることを止めることは死を意味すること

だからこそ、摂食障害者の行動は無理に止めてはいけない。
説得したり、言いくるめたところでその行動は止まらない。
過食するからこそ生きていられる患者がいるということを理解しておかなければ、当人を助けるつもりで言った言葉が鋭利な刃物となり、寿命をさらに縮めることにつながる。

本来抱えていた食べたくなるような感情に向き合う時間を主治医などとしっかり話していくことこそが治療なのではないか。
処方薬を出されるだけの、3分診療になっていないだろうか。

本来真面目でいなくてはいけなかった問題には着手できているのだろうか。

自分の問題が維持していることの意味や人に頼れない背景についても語られているのだろうか。

処方薬も大事であるが、精神科だからこそできる治療につながっているかを再確認したほうがいい。

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なんで家族って私をあんなに監視してくるの?

この言葉は、とある依存症患者が何度もつぶやいていた言葉で、私に強烈な印象を残した。この言葉には、「なぜこんな苦しい思いをしているのにさらに家族は私を苦しめるのか」という裏のメッセージがきっと含まれていたのだろう。実際に依存症患者は、家族に監視されているかと言われれば「監視されている」と私は思う。それはなぜなのか。

①そもそも家族はあなたを信用してない

それもその筈、家族からすると裏切られた記憶のほうが圧倒的に強いからである。家族も何度となく本人の「今回だけ」を信じてきただろう。しかし、その約束は、いとも簡単に破られ、時間をかけて関係性は悪化の道をたどってきた。本人の病識(自分が病気であるという自覚や病気に関する理解)の有無が回復には重要な意味を持つように、家族からの支援も回復には重要な意味を持つ。
その家族が常に疑いの目であなたを見てくると、あなたのエネルギーはどんどん減っていく。これほど辛い思いをしながらも、依存症患者自身が家族に歩み寄らなければならない現実がある。
しかし、残念なことに患者自身はそこまでのエネルギーがないことが多い。理解を得ようにも家族が機能していなかったり、そもそも援助希求能力(素直に助けを求める力)が極めて低いため、事態が大きくなってからでないと助けを求めることができない者も多いだろう。
結果として、多くの家庭で監視の目がこれまで以上にひかり輝き、負のスパイラスが構築されてしまう。信頼を取り戻すためには、時間がかかり、かつ、時間をかけたからといって簡単に回復するものでもない。

 

家庭環境が機能していない

家族が信用してくれないのと並行して、そもそも家族が家族として機能していない場合がある。機能不全家族と言われるものがそれにあたる。要するに、家族が不安定で、家族という機能を果たせていない場合、家族がそもそも助けを求められる存在になっていない。
子どもの頃に当たり前のように起こる感情や問題を感じさせないようにしたり、安全に愛され、受け止められる体験を十分に持てなかった家庭では頼ろうにもどうやって頼ればいいかわからないだろう。もちろん完璧な家族がいいというわけではない。しかし、本来頼れるべき相手がいるにも関わらず、頼れない場合、本人は自立を余儀なくされる。
そのくせ問題を起こすなと言わんばかりに監視し、文句ばかり言ってくる家族がある場合、もうそれは不幸でしかない。

家庭内では真面目で気を遣いながら、親の顔色ばかり気にして「いい子、真面目な子」を演じてきた子どもにとっては、「真面目でいること自体が自分の存在価値になっている」者もいるだろう。子どもの感じる息苦しさは、時として症状に現れ、SOSサインに気付きながらも落ち着いていることを理由に現状維持してしまっている親はまさに毒親といえるだろう。

家族が重い足かせとならないように、機能不全家族に関しては、適度な距離感を保つ必要がある。

監視の目から逃げるためには

①手っ取り早いのが「行動で示すこと」
あなたがどんなに頑張ろうとも、目に見えない成果を家族は認めてくれないことが多い。逆に考えると、今日頑張れたことの積み重ねがあれは信頼は時間をかけて取り戻せるかもしれない。
じゃあどんどん行動すればいいかと言われるとそうでもない。コツは失敗しない自分に合った少しの努力でできる行動を維持すること。周りは信じてくれなくてもそれを維持しながら成功体験を積み上げることが自己肯定感を少しだけ押し上げることにつながる。今日、今、この瞬間頑張れている自分を受け止めること。それは依存症問題だけでなく、他の疾患にも適用することができるかもしれない。

②そもそも家族に期待しない
過度な期待を家族に持つべきではない。
理解者を家族だけにしてしまうと、不健康になるだろうし、家族に頼らないことも重要なのではないか。ただし、それは家族と断絶すればいいというものでもない。つまり自分で立って人生を歩むことに力を注ぐほうが、より良い生き方ができるかもしれないということ。
「若者よ準備せよ」自分で立つということは現実に打ちのめされるリスクを孕んでいる。まあ、そんなときは同じ問題を持つ仲間に頼るなどしてみてもいいのではないか。




オープン・スピーカーズ・ミーティング

オープン・スピーカーズ・ミーティング

皆さんはあまり聞きなれない言葉でしょうが、依存症関連の当事者や支援者、家族などはよく聞く言葉でもあります。
今回は、一般の人たちでも入れる、依存症の自助グループのオープンなミーティングに参加してきました。
依存症のグループは全国にたくさんあり、毎日どこかでミーティングを実施しています。しかし、そのほとんどが当事者しか入れないクローズなミーティングになっています。

 

なぜクローズなのか?
それは話す内容をミーティングの場にしっかりと留めておくためですね。話される内容は決して生半可なものでもないし、クローズ(ちゃんと守られた環境)だからこそ話せる内容がそこでは語られます。
オープン・ミーティングでは基本的に言いっぱなし、聞きっぱなしが大原則。
誰かに話を止められることもしなければ、いっぱい話してもいいし、ちょっとだけでもいい。
依存症に至った過去の辛い経緯、今抱えている不安や依存してしまいたい気持ちなどなんでもいいので言葉にしてみるのがミーティングのいいところ。
安全にしゃべれる場所って大切ですよね。
ちなみに私は当事者ではないので発言することはできません。
50人ぐらいが入る会議室の前で自分の依存問題や心に感じることのありのままに話す当事者を見ているとたまに羨ましく思います。
おっと、話がそれましたね。

 

自助グループは組織ではないし、自分たちで運営している集まり。
つまり法的拘束力なんてないのです。
来ることを強制されることもないし、来たければ来ればいいし、行きたくなければ行かなくてもいい。
だからこそそこに集まる人たちは依存症に対して向き合う姿勢を持って集まっているのだなと思います。
でも、向き合う気持ちを持ってなかったとしても行っていいんですよね。
自助グループってそういうところ。
問題をひとりで抱え込むのではなく、自分の問題について話す場を自分達でつくっていく。自助グループが癒しの場であるといわれる理由が少しわかります。
聞いている人たちは反論するでもなく、途中で茶々を入れるでもなく、ただそこでしっかりと聞いてくれている。
それだけでもなにか癒されるものがあるのだなと肌で感じ取ることができました。
もちろん自助グループは組織ではないですからそこに通報義務等はありません。だからそこ違法薬物であったり、犯罪に結びついてしまった過去などもさらけ出せるのでしょう。
そういった意味でも、なんでも話せて受け止めてくれる場の存在は依存症者だけに限らず重要な居場所となってくると思います。

 

会場の雰囲気
多くのミーティングに参加してきた体験から、共通する雰囲気があります。
それは喫煙所です。
あの何とも言えない独特の空気感。
私も以前喫煙者だったので喫煙所独特の雰囲気は分かるつもりです。
しかし、依存症者達が集まる喫煙所には、やはり、なにかどことなく独特の雰囲気を醸し出しています。
言うならば精神科の中にある喫煙所・・・のような・・・
精神科デイケアの喫煙所・・・
そういったものとどことなく似ている気がします。
一般的な職場にある喫煙所にはないあの雰囲気。
お互いがなにか重いものを抱えながらもそれもひっくるめて一緒にタバコを吸う感じ。それも一心不乱に(笑)ここぞとばかりに。水を得た魚のように??
う~ん。だれかいい表現方法ありませんかね。この微妙なニュアンスとても伝わって欲しい。

回復者
ミーティングに集まる人たちは回復者です。前日に依存性物質を摂取したとしても、この瞬間やめるためにそこに集まっている人たちを私は回復者だと思う。
彼ら、彼女らは依存に対して無力であることを理解している。
だからそこ毎日ミーティングに参加する。
今やめている。
今日やめている。
そういう事実の積み重ねが回復することだということを知っているのだと思います。依存に関してそれぞれの向き合い方があるように、回復過程においても人それぞれの回復過程があるのだと感じ取ることができた。

 

★印象に残った発表者
(個人の大切な体験なので内容は割愛)
◆薬物依存症
◆異性問題・関係依存・性依存
◆アルコール依存症
◆摂食障害
◆処方薬依存
その他もろもろ、内容が濃すぎてお腹がいっぱいになる内容ばかりだった。

 

きっとこういう場でなければ語れない内容ばかりだろう。
依存に関する理解が乏しい人が聞けばきっと
『あなたの意志が弱いからだ。自己責任だ。我慢が足りないからだ。』
などと心無い言葉を浴びせてくるだろう。
しかし、依存症は意志の強さでなんとかなるものではないことを彼らは知ってる。
本気で当事者達とか関わった人ならそのその感覚を掴むことができる。
いやっ、自助グループに参加し続ける人がそれを実感できるのかもしれない。
「依存症は病気なんだということを」
苦しみながらも、今日一日その依存から距離を取るためにミーティングが存在し続けるのだなと身を持って実感した。

もし、いま依存の問題で悩んでいる人がいるなら
まずは素直に助けを求めること。
依存症は人に頼れない病とも言われる。
だからこそ似たような仲間に出会うことが大切だと個人的には思う。
ミーティングで相違点を見つけるのではなく、共通点をぜひ探してほしい。
自分の問題は果たして自分で抱えきれるものなのかなど
これは依存症に限ったことではないかも知れない。
例えば、家族の問題を家族で解決できる人はいいかもしれないが、家族では解決できない人も多いはず。
つまりは話せる場所を確保しておけってことですね。
ずっと悩んでるの大変なことなので、荷物を下ろせる場を作ること。
そして、そこが安全な場になっている必要があることが大切なのかも。