間違って自死に至る病~リストカッターケンイチ

今回は自傷行為のおはなし。
でも何故このサブタイトル?と思った人も多いかもしれません。
以前の記事でも書いたとおり,私はよくラジオを聞いていまして「伊集院光の深夜の馬鹿力」というラジオの古~いコーナーで「リストカッターケンイチ」というものがあります。このコーナーが面白くて,ハガキ職人が作るケンイチは,いつもギリギリまで手首を切らずに問題を乗り切ろうとするわけですが,最後の最後にブシャーーーっと切ってしまうのです☆そこに至る葛藤やらなんやらがこのコーナーの面白いところ。

リストカット
中学校の30人クラスだと,1人ぐらいはリストカット経験者がいると言っても過言ではないでしょう。潜在的には一割ぐらいの人がリストカット(軽度も含める)を経験しているのではないかとも言われています。基本的にリストカットは誰もいない一人で行われることが多く,構ってもらいたい思いやパフォーマンスとしての自傷は圧倒に少ないのが実際のところ。
切ってる時ってほとんどが一人で行われます。(ここ重要!)
つまり,彼ら彼女らはなんとか生き延びるために切り続けているわけです。対処法が間違っているように感じながらも,その一瞬一瞬を生きようとする姿は苦しみや生きづらさそのもの表してくれているのではないでしょうか。
以前の記事でも書いた,自らを傷つけ自分の叫びを表現している彼らが羨ましいというのもあながち間違っていない。
一般的な社会人がわかりやすい所にリストカットの傷がガッツリあったらどうでしょうか。たぶん、世間の目は冷たく,本人の抱えているものをどうにかするよりも周りの目を先に気にすることでしょう。お客様の目の届かないところ,または,なるべく人と接することのない場所など。
まさに悪循環。
本人の思いが表された傷を,さらに目の届かない所に追いやる。これでは切ったことで何もプラスになることはない。さらに生きづらさを感じることの繰り返しになるでしょう。

リストカットのやめかた

第1に,まず誰かに打ち明け知ってもらうこと。
理解者を探すことが大事。

第2に,切ってしまうダメな自分でも、まあそれはそれでいいんだと自分を認めてあげること。その過程で間違って死んでしまわないために安全策をとること。あと自分で手当すること。
第3に,治療につながりつづけること。

ザックリまずはこの3点からですかね。周りの人間が意地になって止めようとすればするほど悪化することも多いこのリスカ問題。
本人は傷を隠すためにどんどん賢くなります。
見えないように腕や脚にする人も。
結局行動をどうにかするのではなく,感情を取り扱わなければ回復しにくいということではないでしょうか。なぜ切りたくなるのか?どういう感情が今あなたの中にあるのか?どんな感情に苦しんでいるのか?などを安全な場で話すことが大事。脳内麻薬が痛みを鈍らせ,離人体験させてくれることで助かっている部分もあるのでしょうねきっと。リストカットはその中で唯一助けを求め反応してくれたものだったのかもしれません。だからこそ切る選択肢は残しておくべきだと私は感じます。切る切らないの綱引きは自傷に対する熱意を高めさせるだけだと覚えておきましょう。感情的に反応する相手には,同じ土俵では戦わないのが支援のコツといえるでしょう。タイトルにもある通り,間違って自死に至ってしまうのがこの病気の怖いところ。つらさの解消に行った行動が,意図せず既遂に至ってしまう・・まさに生きるために自傷が死をたぐりよせているのだと思います。

そんなこと言ったって周りは理解してくれないと思う人も多いかもしれません。なら,助けてくれそうな人の目の前で切ってみるのもひとつの方法かも。だいぶ間違っているかもしれませんが,精一杯伝えてみる行動は大事かも。切ることで相手を巻き込んでしまうリスクも考えないといけませんが,切ると何か変わるかもよ?最後の選択肢としてとっておきましょう♪それもいいんじゃないかなと私は感じます。

生きるために自らを傷つける者

包丁・ハサミ・カッター・ナイフ・ドス・キリ

今回はリストカットのお話です。なかなか闇が深く根も深いお話かもしれません。そのさわりだけでもまずは触れておこうかと。面白いネタ(語弊があるかも)は何度かに分けて書いていきたいですね。
あっ,久々の投稿ですね。週に二回投稿できれば御の字でしょ。

さて,わたくしツイッターなるものをやっておりまして,フォローしている人の中にはいろんな分野の研究対象がいるのです。(言い方ひどい)。その中でも多いのが,自傷行為をする人たちかもしれません。彼ら彼女らはある種自己承認欲求を満たすためツイッターという媒体を通じて外の世界に向けてレスポンスを求めながら生きているわけですが。時々思うのが,彼らはツイッターなどがあるからこそ生きていけるのかもしれないということ。まさに命の綱となっているのかもしれません。私はこの綱を悪いものとは思いません。彼らの人生には選択肢がそれしかなかったのかもと思うとその自傷行為も何か生きていく上で必要なものになっているのではないかと感じるのです。
もちろん他の解消法があるならそれに越したことはない。つまりそれ以外の解消法などを持っている私たちはこれまで生きてきた人生が割とうまく生きることができたのかも。これは哀れみの気持ちでもないし情けなどの感情ではない。彼らにはその自傷行為をせざるを得なかった過程があったのかもと考えると,時としてそのツイッターに書かれるつぶやきが愛おしく思える時があるのです。

うらやましさ

そうです。この感情がもしかしたら一番フィットするかもしれない。自傷行為をし,自らを傷つけ自分の叫びを表現している彼らが羨ましいのかもしれません。かと言って私には自身に刃物を向ける勇気?はない。する者としない者,この一線には重要な課題が隠れているのだと思うのです。
そして,した者に関してはそれが止められなくなるものになっていく・・・何かを解消できたその体験は強化され,その行動が多くなることは心理学うんぬんでよく語られることですね。まさに依存の問題だ。この問題について勉強していくと自己治療仮説なるものに出会うかもしれません。やはり彼らもそうやってこの生きづらい世の中を必死に生き,自ら傷つけながら自らを治療しているのかもしれません。意図しない事故で自傷がその域を超えてしまうこともよくあること。彼ら彼女らがそれと変わるものに意味を見いだせるといいな。そして私自身も。

はぁ。もう月曜日だ。今週乗り切れば長いGW。あと少しだけ頑張ろう。いやっ,今日月曜日を乗り切るだけの頑張りでいいか。