「NO」が言えないのには訳がある!?依存症者はなぜ押しに弱いのか

嫌ならハッキリと「ノー」と言えばいいのに(怒)

でもね、世の中には嫌だと感じながらも「ノー」が言えない人たちがいるのですよ!
彼らには彼らなりの言えないワケがあるのです!

相手の要求をそのまま受け入れてしまうワケ

親やパートナー、友人知人に何かしらお願いされる機会は割と多い。
「ついでにお茶買ってきてよ」
「テスト前にノート貸してくれない?」
「日曜日ちょっと付き合ってくれない?」
「アマゾンギフト券ください」・・・これは断れる。

相手の要求に答えたい思いはあるものの、どうしても嫌だと感じる場合、意思表示として私たちは「ノー」を示すわけだが、「ノー」は罪悪感と仲良しだ。

心の底では相手の要求はなるべく断らず叶えてあげたいと思う反面、断ることで感じる罪悪感に悩まされる人たちが一定数いる。

そのような人たちにとって、罪悪感は非常に耐え難い感情とも言える。

つまり、耐え難い感情に耐えきれなくなり、「イエス」が結果として示される。要するに彼らの「イエス」は本当の意味での「イエス」ではない場合があるということ。

「ノー」が言えない背景

■そもそも断ることが悪いことだと感じている
■「ノー」と言うことに慣れていない
■「ノー」と言えるような環境で育ってこなかった
そもそも断ることが悪いことだと感じている
断ることで相手を否定してしまうように感じる人はまさにこれだ。
断ることを悪いことだと認知している場合があり、自分がどうかよりも相手からの評価が気になってしまい断れない。
「ノー」と言うことに慣れていない
「頼まれたら助けてあげましょう。」
「人に優しくしてあげましょう。」
など、他者との調和・協力関係が美徳と評価されやすい日本の教育の中では、断り方に関する具体的な教育はほとんどなされていないのが現状だ。断り方を学ぶ機会がないまま大人になった結果、選択肢は「受け入れる」しかなくなってしまう。

「ノー」と言えるような環境で育ってこなかった
人間関係の基本は親との愛着関係の中で形成される。
しかし、その基本が安定していない環境では子どもは安全に断ることができない。

つまり、子ども時代に自分の意思表示「ノー」を言ってきた経験こそが今のあなたを形成する。

自己中心的な関わりは例外だが、主体的に自分の意思表示を尊重された経験が少ない場合もまた「ノー」が言えなくなってしまう。

まとめ

この記事では、何もかも断ればいいと言っているわけではない。
相手との関係を考慮して、自分をその中である程度出せるのであれば妥協点として受け入れることも大切だ。

ただし、無理をして「イエス」を言い続けることで自分自身を追い詰めることはやめておいた方がいい。

特に相手の顔色を伺いながらの「イエス」はあなた自身をどんどん窮地へと追い詰める。「ノー」の意思表示は決して悪いことではないし、それで壊れてしまう関係ならば、きっとそれ以前に破綻している関係なのだと思う。

人間関係で悩んでいるときは特に視野が狭くなる。依存症患者の中には視野が狭くなることと同時に見捨てられ不安から「ノー」が言えなくなる人もいる。

自分にとってマイナスな関係性であったとしても求められることは価値のあることと頭で理解してしまう。そのため相手の要求を受け入れてしまいやすくなる。

新しい人間関係を作ることは非常に大変な作業。それゆえ既存の人間関係に固執してしまう人も注意が必要だろう。

あなた自身を大切にしてくれる人間関係、コミュニティーにいる方がきっとあなたらしくいられるだろう。

その方が生きづらい世の中がちょっとだけ生きやすくなるかもしれない。

なんか書いてて思いましたが、依存症者に限らず、多くの人に当てはまりそうですよね今回の記事。

あ〜でも見捨てられ不安から「イエス」って言っちゃう感じはわかる気がするかも。