包丁・ハサミ・カッター・ナイフ・ドス・キリ
今回はリストカットのお話です。なかなか闇が深く根も深いお話かもしれません。そのさわりだけでもまずは触れておこうかと。面白いネタ(語弊があるかも)は何度かに分けて書いていきたいですね。
あっ,久々の投稿ですね。週に二回投稿できれば御の字でしょ。
さて,わたくしツイッターなるものをやっておりまして,フォローしている人の中にはいろんな分野の研究対象がいるのです。(言い方ひどい)。その中でも多いのが,自傷行為をする人たちかもしれません。彼ら彼女らはある種自己承認欲求を満たすためツイッターという媒体を通じて外の世界に向けてレスポンスを求めながら生きているわけですが。時々思うのが,彼らはツイッターなどがあるからこそ生きていけるのかもしれないということ。まさに命の綱となっているのかもしれません。私はこの綱を悪いものとは思いません。彼らの人生には選択肢がそれしかなかったのかもと思うとその自傷行為も何か生きていく上で必要なものになっているのではないかと感じるのです。
もちろん他の解消法があるならそれに越したことはない。つまりそれ以外の解消法などを持っている私たちはこれまで生きてきた人生が割とうまく生きることができたのかも。これは哀れみの気持ちでもないし情けなどの感情ではない。彼らにはその自傷行為をせざるを得なかった過程があったのかもと考えると,時としてそのツイッターに書かれるつぶやきが愛おしく思える時があるのです。
うらやましさ
そうです。この感情がもしかしたら一番フィットするかもしれない。自傷行為をし,自らを傷つけ自分の叫びを表現している彼らが羨ましいのかもしれません。かと言って私には自身に刃物を向ける勇気?はない。する者としない者,この一線には重要な課題が隠れているのだと思うのです。
そして,した者に関してはそれが止められなくなるものになっていく・・・何かを解消できたその体験は強化され,その行動が多くなることは心理学うんぬんでよく語られることですね。まさに依存の問題だ。この問題について勉強していくと自己治療仮説なるものに出会うかもしれません。やはり彼らもそうやってこの生きづらい世の中を必死に生き,自ら傷つけながら自らを治療しているのかもしれません。意図しない事故で自傷がその域を超えてしまうこともよくあること。彼ら彼女らがそれと変わるものに意味を見いだせるといいな。そして私自身も。
はぁ。もう月曜日だ。今週乗り切れば長いGW。あと少しだけ頑張ろう。いやっ,今日月曜日を乗り切るだけの頑張りでいいか。