【恥】感情との付き合い方
「旅の恥はかき捨て」という言葉があるが、あれは恥をかいても大丈夫だと言ってるわけではなく、旅を理由に本来出せない願望を「言い訳のできるもの」にしてしまう大人の汚さだと感じる。
本当にしたいことであれば素面(しらふ)ですればいい。
ただ、恥をかきたくないというその思いはどこか共感できるものがある。誰しも失敗なんてしたくないし、できることなら人前で恥はかきたくないもの。だからそこ「恥」という感情はとても扱いづらい感情でもある。特に人の目ばかり気にしている日本人ならなおさらだろう。
逆に考えれば「恥」の感情をコントロールできさえすれば、多くの人は自分を自由に表現したり他者の目ばかり気にして生活しなくてすむ。そう考えると「恥」の感情はあなた自身で取り扱えるものにしておいたほうがいい生き方ができるのではないか。
秘密にひっそりと
「こんなこと誰にも言えない」
「本当の自分なんて誰も受け入れてくれない」
「こんなのはきっと自分だけだ」など恥につながる心のセリフを私たちはよく頭の中で考える。
結論を言えば
【人間関係で発生する感情は、人間関係の中でしか癒されない。】
つまり「恥」の感情は、適切に、また安全に出せる場が必要であるということ。受け入れられたり、共感してもらったり、否定されないということだけでも大きな意味を持つ。
依存症者の多くは、過去に壮絶な「恥」体験を繰り返してきていることが往々にしてある。それらを適切に表現できる場は、世間にはほとんどないと言っても過言ではない。
あるとすればカウンセリングや自助グループぐらいだろう。しかし、多くの依存症者はこの自助グループにつながるまでに多大な時間を費やしてしまう。
以前自助グループの記事でもかいた
オープン・スピーカーズ・ミーティング のように、助けを求めることが苦手だからこそ依存の問題は複雑化する。その人の捉え方や問題の大きさにもよるが、つながるまで数十年かかる人もいるぐらいだ。それほど「恥」体験を話すことはハードルが高い。
「恥」を受け入れられるものにするためには、もちろん時間がかかる。当事者が「恥」をどのように捉え、どう解消していくかが課題となり、あなたの問題は○○だから軽症だと一概に決め付けることはできない。
自助グループなどのミーティングの役割や効果は、まさにこの点に尽きるだろう。誰にも話せない本音、それを黙って聞いてくれる環境が自助グループには存在し、またこれまでも存在し続けてきた。
「恥」と表現していくのか、自分が歩んできた轍(わだち)と捉えるのか、決めるのは自分自身であり、決して経験はなかったことにはできない。話すこと、吐き出すことこそ回復には必要であり、自助グループなどにつながってぜひ安全に話せる場を確保していってほしいと感じる。それこそ【恥】体験を語ることの意味だと思う。