テリー伊藤が槇原敬之に放つ「彼今、情けないじゃん」に感じる違和感

今朝のサンデー・ジャポンを見ていて、テリー伊藤が槇原敬之被告の保釈に対するコメントに
「槇原くんは、情けなければ情けないほどいい曲を作る。」
彼は今情けないじゃん

 

最近のマスコミやワイドショーは、なぜこんなにも人を叩くことが好きなのだろうかと考え出すとテレビの前で頭が痛くなってきた。

いつもと同じ警察署の前で、
いつもと同じ報道陣に囲まれ、
誰に向けてかわからない「申し訳ありません」の言葉を何度もテレビで繰り返して流し、
マスコミやコメンテーターは叩くだけ叩いてそれ以降のケアなどには興味を持たず、
憶測とよくわからない芸能関係者の言葉をもとに、叩けるところを叩いている姿は、まさに「いじめ」の構図そのもののように見えた。

 

この事件は、2年前の覚せい剤取締法違反の容疑で起訴された珍しい事件でもある。さらにいえば、本人から採取した尿からは、違法薬物の反応は陰性だったことからも起訴に至るには珍しい事件でもあろう。所持や共同所持等具体的な内容は今後徐々にわかるだろう。

背景には、「ラッシュ」等の危険ドラッグの流通量の急激な増加などももしかすると関係しているのかもしれないが、ワイドショーなどでは具体的に取り上げず、釈放され頭を下げている場面の繰り返しばかりだった。事実ワイドショーなどでも具体的な経緯などには触れておらず、留置されている間に作詞したとか、個人的なパートナーに関するものが中心で、わざわざ日曜日の朝から取り上げる内容でもないのではと思う浅い情報ばかりだった。

ただ、「マッキー頑張れ~」、「応援するぞ~」などの声援はきっと槇原敬之さんに届いているだろう。

槇原敬之さん自身の依存症に関する回復が、私たちにはどの程度進んでいるのかはわからないが、ぜひ多くの社会資源を活用してひとりで問題を抱え込まないようにしてほしい。そしてまた才能に満ちた曲を聞きたい。




槇原敬之氏の逮捕から見えてくる、芸能人が薬物をやめられないワケ

「薬物を一度でも使ってしまうと、もうやめられない」
「薬物は恐ろしいもので、絶対に使っちゃいけないもの」
「使うと廃人になってしまう」
という昔から言い伝えられてきたような文句が社会の中にはいくつか存在する。
ただ、薬物の依存問題において、それは
半分正解で、半分間違っている

薬物依存の問題は、その他の依存問題とも多く重なるところが多く
完治はしないが、回復することはできる

2年前である2018年の事件で、アーティストである槇原敬之容疑者が逮捕され、新聞やマスコミが悪意を持ち、こぞってニュースを盛り立てている。本人は所持の容疑をおおむね認めているという報道もあるなど、情報が交錯している中で、スポーツ誌などでは、品位が問われるような見出しが並んでいた。

前回の逮捕は1999年、約21年もの空白期間に一体何があったのか。薬物と上手く距離が置くことができていたのか、はたまた単にバレなかっただけなのか憶測が憶測を呼ぶネット上の記事にも一貫性がない。尿の「簡易検査」では、陰性と報じられている中で、槇原容疑者の今後を回復について考えている雑誌媒体は極端に少ない。

半分正解、半分間違いの意味

記事の最初でも書いたように、「薬物をきっぱりとやめている人は、少なからず存在する。」体質が合わない、使ってみたか効果をあまり感じることができなかった、違う薬物の方が自分に合うなど、理由は様々がだ、薬物乱用を繰り返す過程で、薬物依存になる前に薬物から手を引くことができる人も存在するのだ。

依存症になってしまうと治らないの?

薬物乱用を繰り返す中で薬物依存症になってしまうともう病気は治ることはない。
つまり「完治」はしない。
ただ、依存症患者は【回復】することはできる。
現在多くの依存症患者たちが、今日一日を意識しながら薬物をやめることに力を注いでいる。

なぜ芸能人は薬物をやめることが難しいのか

良い依存先を持つことは人生の質を豊かにする。
ただし、誰しもが良い依存先を持っているというわけではない。
今回の容疑の中には「覚せい剤」や「危険ドラッグRUSH」などの所持や使用があった。
これらのような違法なものに関しても、身体的に現れる効果があり、それらは薬物使用を繰り返すことによって強化され学習されていく。

つまり、「使い続ける理由」ができてしまうのだ。

薬物を使わない人たちがストレスを発散するのと同じように、ストレス発散の方法の選択肢として違法薬物が彼らには存在してしまうようになる。

近年、塀に閉じ込めておくコストを考えると、薬物依存症者(単純使用)の社会内での回復が注目を浴びられることも多くなってきた。塀に閉じ込めることでかかる税金よりも、社会復帰に向けた回復の手助けを行うことが長い目で見た時【回復】につながる諸外国のモデルケースがあるのも後押しになっているのだろう。

個人の自己使用に関して非犯罪化の流れもさざ波のようにある中で、当事者たちの回復には「当事者たちの声」が重要な意味を持つだろう。

回復施設や自助グループが問題をすべて解決させてくれるわけではないが、ほとんどの依存症者が【つながらない】現実がある。松本俊彦先生の「助けて」が言えないの著書にもあるように、自ら支援につながることが苦手な彼らに周囲がどんな対応をしてあげられるかを考えなければいけない。

それはきっと叩くことや無理やり反省を促すことではないと感じる。

適切な社会資源につなげてあげたり、選択肢を並べ、一緒に考えていく作業が彼らには必要になるだろう。芸能人だからそこ頼ることができない部分のきっとあるのかもしれないし、それをじっくり共有できる安全な場所は社会には数少ない。

だからこそ、槇原敬之さんやピエール瀧さん、沢尻エリカさんにも治療に結び付いて欲しいと感じる。
もちろん田代、お前もなっ(`・ω・́)ゝ

きっと薬物の問題は、あなたが考える以上のものになっているのかもしれない。だからそこ芸能人じゃなくとも【回復】につながるための努力は惜しまないでほしい。



自分を成長させる【恥】体験を語ることの意味

【恥】感情との付き合い方

「旅の恥はかき捨て」という言葉があるが、あれは恥をかいても大丈夫だと言ってるわけではなく、旅を理由に本来出せない願望を「言い訳のできるもの」にしてしまう大人の汚さだと感じる。

本当にしたいことであれば素面(しらふ)ですればいい。

 

ただ、恥をかきたくないというその思いはどこか共感できるものがある。誰しも失敗なんてしたくないし、できることなら人前で恥はかきたくないもの。だからそこ「恥」という感情はとても扱いづらい感情でもある。特に人の目ばかり気にしている日本人ならなおさらだろう。

 

逆に考えれば「恥」の感情をコントロールできさえすれば、多くの人は自分を自由に表現したり他者の目ばかり気にして生活しなくてすむ。そう考えると「恥」の感情はあなた自身で取り扱えるものにしておいたほうがいい生き方ができるのではないか。

秘密にひっそりと

「こんなこと誰にも言えない」
「本当の自分なんて誰も受け入れてくれない」
「こんなのはきっと自分だけだ」など恥につながる心のセリフを私たちはよく頭の中で考える。

 

結論を言えば
【人間関係で発生する感情は、人間関係の中でしか癒されない。】


つまり「恥」の感情は、適切に、また安全に出せる場が必要であるということ。受け入れられたり、共感してもらったり、否定されないということだけでも大きな意味を持つ。

依存症者の多くは、過去に壮絶な「恥」体験を繰り返してきていることが往々にしてある。それらを適切に表現できる場は、世間にはほとんどないと言っても過言ではない。

あるとすればカウンセリングや自助グループぐらいだろう。しかし、多くの依存症者はこの自助グループにつながるまでに多大な時間を費やしてしまう。

以前自助グループの記事でもかいた
オープン・スピーカーズ・ミーティング のように、助けを求めることが苦手だからこそ依存の問題は複雑化する。その人の捉え方や問題の大きさにもよるが、つながるまで数十年かかる人もいるぐらいだ。それほど「恥」体験を話すことはハードルが高い。

「恥」を受け入れられるものにするためには、もちろん時間がかかる。当事者が「恥」をどのように捉え、どう解消していくかが課題となり、あなたの問題は○○だから軽症だと一概に決め付けることはできない。

自助グループなどのミーティングの役割や効果は、まさにこの点に尽きるだろう。誰にも話せない本音、それを黙って聞いてくれる環境が自助グループには存在し、またこれまでも存在し続けてきた。

」と表現していくのか、自分が歩んできた轍(わだち)と捉えるのか、決めるのは自分自身であり、決して経験はなかったことにはできない。話すこと、吐き出すことこそ回復には必要であり、自助グループなどにつながってぜひ安全に話せる場を確保していってほしいと感じる。それこそ【恥】体験を語ることの意味だと思う。




あなたの子どもをアダルト・チルドレンにしないために

アダルト・チルドレン(Adult Children:以下AC)とは、幼少期に家庭内で深い傷付き体験をした子どもたちが大人になった人のことを指す。

よく「大人のような子ども」と誤解されがちだが、ACは「幼少期大人たちの外圧によって、子どもらしい生き方を阻害されてしまった子ども」といえるだろう。

アルコールや薬物に問題を抱える親のもとで育つと、子どもは様々な葛藤の中で生きることとなる。「親が急に怒り出す」、「家庭をかえりみない」、「家族の約束などを守らない」など親中心の生活に振り回されてしまう。たとえその原因が親にあったとしても子どもはそれをなかなか主張することができず、「自分が悪いから」と問題を自分のせいにしてしまう。

たとえトラウマ(心的外傷)のような体験を親から受けたとしても、それを「親のせい」することができず「自分が悪いから」と結論付けてしまうのがACの特徴でもある。

つまり、自分自身の感情を素直に感じる力が、環境によって十分に育たなくなってしまったのだ。

素直に育つことができなかった子どもたちは、周りからすると一見「とても適応している子ども」に見えたり、「素行の悪い不良」だったり、「優等生」だったりする。

家庭内で起こる様々な問題をまるでなかったかのような振る舞いで、大人たちの目を回避したり、反対に集めたりもする。ACは、不遇とも言われる家庭環境で育った人が多く、自分のことよりも周り中心の生活を送る中で自分の能力を十分に出しきれなかった人が多い。

また、ACは恋人やパートナーを選ぶ際に「問題を抱えている人」を選ぶ傾向もある。自分の生きる環境に問題があったほう安心しやすく、そもそも「私には問題がある人が合っている」や「私がしっかりしなきゃこの人はダメになってしまう」など、自己肯定感の低い人が多いもの確かだ。

浮気や暴力、ギャンブルをはじめ、一般の人が避けるであろうと思われる相手を無意識の内に探してしまう。

呪縛から解放されるためには、過去は変えられないことを受け入れることが大切。
また、世代間の負の連鎖を止めるためにも、自分の育ってきた環境自分がこれから作っていく環境は違うのだということを意識することが生きやすさを作り出す。

自分がされたこと、どうにもできなかったこと、本当はこう思っていたことなど心の中を整理し、新しい考え方やこれからの生き方に目を向けることが回復につながる。

過去大変だった自分を十分愛してあげることが、自分の子どもをアダルト・チルドレンにしないための第一歩なのだろう。




働く女性、ひきこもる男性

「寿退社」という言葉が当たり前のように使われ、女性は結婚とともに家に入るという時代はとうの昔に過ぎ去り、社会保障の枠の中で、育休などを活用しながら男性と同様の賃金形態になりつつある今日ではあるが、それでも女性というだけで待遇が変わる職場も多数あり、区別、差別の渦の中で女性性という価値観に悩み、苦しんでいる人も多いことだろう。

外に目を向けると・・・

厚生労働省の調査では、課長相当以上の役職者に占める女性の割合は12.1%だという。EU離脱に関する議論が白熱するイギリス議会を見てみても一目瞭然だ。日本とは違い、圧倒的に女性の割合が多い。先進七カ国の中でも、女性議員の割合は日本が最下位(2019)だ。

我が国より下位を見て議論する意味はあまりないと思うが、アフリカや中東、太平洋地域の小国などと同様の女性の社会進出率の中で、働く女性をどのようにサポートしていくかの議論が急務になっている。日本では女性の活躍する場は決して多くないのが現実であり、それと真摯に向き合う必要があるだろう。

行き場をなくした男性たち

必ずしも男性が隅に追いやられるというわけではないが、確実にその波は来ているだろう。それでも、そんな波など構わず自分の仕事や役割を着実にこなせる男性も日本にはまだまだいる。(と思いたい。)

ただ、その波に乗れない男性にとっては、女性の社会進出は自分の地位を脅かす驚異となってくる。

ここ最近では、ワーク・ライフ・バランスに関する意識改革が徐々になされ、仕事と育児の両立に向けて男女問わずその活用に前向きだ。また、大企業になるほど、女性管理職の活用に関して前向きであり、企業内の助成制度も充実されている。その中で男性は、果たして既存の居場所といわれるものを守り続けていくのか、それとも意識改革とともに大きな舵取りを余儀なくされるのか、そもそも男性性とはという価値観の見直す岐路に立たされているのではないだろうか。

約束された未来とは違う「今」

「男=仕事。誰よりも遅く職場いること、企業に尽くすことこそ社会人だ。」など、仕事場に長時間いることが評価の対象であったり、企業に尽くすこと=社会人という社会のスティグマが脈々と存在し、組織の風土に合うものこそが正しいという価値観の中で、男たちは高度経済成長を走り抜けてきたのかもしれない。

すがりつくということは、言い換えれば、その人にはそれ以外のものがないということでもある。これは非常にリスクの高いことであり、依存症問題にも大きく通ずる。

「依存」という言葉の反対が「コネクション(つながり)」といわれるのも納得できるように、安易に仕事に依存していた男性達は、その依存対象が奪われることに脅威を感じる。つまりは、仕事を取り上げられると、何に力を注いでいいのかわからなくなる人も少なくない。

真面目に仕事に依存していた人であればあるほどそうかもしれない。

多くの人は、なにか自分に役割があると感じられるようなものにつながっていれば、多少なりとも安心しながら生きていくことができる。しかし、それを取り上げられるということは、いわば依存対象を失うということでもある。

つまり、依存対象が仕事からアルコールやギャンブル、薬物等に変わるだけでは根本的な問題は解決しない。

「ひきこもる」は手っ取り早くできる行動だ。
だからそこ、今後も中年男性のひきこもりは上昇傾向になることが安易に予想することができる。

ひきこもることは決して悪いことではない。
むしろその時間をいかに活用して「生きがいを見出すか」が求められる。
意味のあるひきこもり男性が増えることが男性の社会進出の次の大きな一手になるのではないだろうか。




離婚にまつわるメンタルヘルス

平成30年の統計では、日本の離婚率は約35%とも言われ、3組に1組が離婚という結末をむかえている。しかし、近年では離婚の捉え方も様々で、離婚=不幸という方程式が必ずしも成り立つわけでもない。

そもそもどうやって離婚するするのか?

離婚に関しては、主に3つのルートが存在する。

 

①まずは、当事者同士の話し合いの結果、お互いが納得した上で署名捺印を交わし、離婚届を提出する【協議離婚】である。離婚届には、未成年の子どもに関する親権者の取り決めなどを定める欄もあり、婚姻関係解消に関する方向性が、当事者同士の話し合いによって取り決められた後、役所に提出することで法律的に婚姻関係が解消される。いわゆる円満離婚と言われるものだ。

しかし世の中そんなにうまくはいくものでもない。
②お互いの財産分与や子どもの親権、養育費、慰謝料など、片方が離婚に関して納得できず、家庭裁判所などの行政に介入してもらい、専門の調停委員の介入によって話し合うのが【調停離婚】である。お互いの性格の不一致や価値観や生き方そのものの捉え方などが原因にも挙げられ、当事者同士では平行線のまま関係がより悪化の一途に向かうこともよく聞く話だ。

③弁護士や行政機関などによる第三者が介入したにも関わらず、調停が成立しない場合、裁判官等に判断してもらうのがいわゆる【裁判離婚】と言われるものだ。裁判では、財産分与に関して細かい取り決めなどが数多くあり、預貯金だけでなく、夫婦関係でお互いに協力して築いてきた財産に関しても分与の対象になる。また、子どもの学資ローンや住宅ローンも財産分与の対象になってくることから、弁護士等の第三者が介入しながらその取り決めについて明確にしていく。離婚成立まで長時間、長期間かかることも多く、そのストレスは男女問わず重くのしかかる。

主な流れとしては、協議離婚<調停離婚<裁判離婚となるほど労力が増え、生活面や仕事面、そしてメンタルヘルス面にも大きな影響を及ぼすことが容易に想像できる。

メンタルヘルス

離婚手続きでは、相手の言い分なども考慮に入れた今後の見立てについて話し合う。時に相手の感情を逆撫でてしまうことがあったり、反対に人格を否定されるような言葉に晒されてしまう。
そういった面で、自分にとって味方となってくれる相手を見つめておくことは精神的な安定につながるだろう。専任の弁護士だけでなく、【法テラス】などの無料相談などを活用しながら一人で戦わないことが重要と言える。

弁護士ごとに着手金や成功報酬による報酬規定を定めているところもあり、見積もり等をとっておく必要がある。なかには離婚を専門とするカウンセラーと連携をとりながら、離婚までの長い道のりをサポートしてくれるところもあると聞く。

最後の一歩が踏み出せない

離婚を考える多くの女性(今回は女性側の目線から)が自分の我慢を低く価値下げしてしまう傾向がある。価値下げとは、自分がこれまでしてきた努力や我慢を『私が我慢できなかったから離婚に至ってしまった。』と自己評価を低く見積もってしまうことだ。特に2007年以前は、年金分割制度が整備されておらず、離婚したくても夫が加入している厚生年金などを受け取る土壌が整っていなかったためか、泣き寝入りするように我慢を虐げられていた女性も多くいただろう。

その反面、こうした年金分割制度ができたからこそ離婚率の上昇も考えられており、リ・スタートを切りやすくなっと捉えるか、結婚の価値観が変わりつつある現状が伺える。近年多く取り上げられている熟年離婚の背景には、相手の親の介護に関する負担意外にも、このようなお金の事情があるのかもしれない。

【自分の押し殺して我慢を貫き、最後まで離婚せずに一生添い遂げる】ことは現代ではもう通用しなくなっているのかもしれない。もちろん結婚・離婚の価値観はそれぞれ持っているものであり、どれが正しいとか間違っているというものでもない。

自分の人生を自立して歩くためには、相手に依存し過ぎず、自分で立ち上がる決意と行動力が必要となり、きっと離婚に至る経緯には、計り知れない心理的な負担が積み重なってきたのだろう・・・。

離婚によるリ・スタートに失敗しないコツ

■メモにまとめよう
■子どもがいるのなら養育費について計算してみよう
■ふたりの資産とはなにかまとめてみよう
■離婚の理由が相手の過失(暴力や不貞行為、ギャンブルなど)である場合、経緯を記録する
■荷物をまとめ身軽になる
■問題をひとりで抱え込まず、助けを求められる相手を確保しておく
■心理的負担を低く見積もらない

まとめ

長距離走と考えながら、一緒に伴走してくれる信頼できる相手を見つけ、しっかりと自分の生き方全体を見つめ直す機会となれば離婚も決して悪い結果になるわけではないだろう。もちろん離婚することをやめる道だってあるわけで、保留や棚上げしておくことだってできる。選択肢は多くあることに気付くことができれば広い視野で相手と向き合えるかもしれない。

あなたがあなた自身でいられるための選択肢を選ぶのだから、そこに間違いはないと思うし、自分の気持ちを大切にすることがなにより大切だと思う。

ふと離婚に関するメンタルヘルスについて記事が書きたくなった令和一発目の記事でした。今年もよろしくお願いします。




ギャンブル依存症は病気か自己責任か。保険適用のメリットとは。

結論としては、ギャンブル依存症は病気といって間違いない。

日本には、法律によって定められた競馬や競艇、競輪、オートレースといった地方公共団体による公的に認められたギャンブルが存在する。また、現在カジノを含む統合型リゾート施設の開業に向けて、都道府県が誘致に名乗りをあげている最中にギャンブル依存症の治療を保険適用させる動きが活発になってきている。

依存症治療で有名な国立病院機構久里浜医療センターの調査では、強い依存性が疑われるギャンブル依存症患者の暗数は全国で320万人にも上るとも言われており、日本人のギャンブルに対する捉え方を見直す時期に来ているのかもしれない。

最近は、店頭ののぼりやCMが少なくなったものの、日本にはパチンコやパチスロといった法律的には賭博に含まれないグレーな遊戯を重ねる事によって日々ギャンブル依存症者が量産されているともいえる。法律の規制の範囲の中での遊戯だからといって油断は禁物なのだ。

■ギャンブル依存症は行為障害に分類され、診断基準には、
①興奮を得たいがために掛け金の額を増やす
②その行為を中断させられると落ち着きがなくなったりイライラしたりする
③制限をするにも関わらず、その枠を超えてしまう行為が伴う
④感情が一時的に楽になる機能をもつ
⑤嘘や言い訳が多くなる
⑥日常生活に支障をきたす程にコントロールを失ってしまう
などの特徴が、数個あるだけでも病的ギャンブルになってしまう。
(診断基準の詳細は省略

最近では、ニュースなどで加熱過ぎるほど取り上げられる覚せい剤問題を筆頭に、アルコールやギャンブル、ゲームといった多くの依存問題に焦点が当てられている。次の対象になるのは、潜在的な依存症が多いとされるギャンブルに向かう世論の流れはある意味至極まっとうな流れともいえるだろう。

自己責任では語りきれない当事者たちの苦しみ


先程もいったように、ギャンブル依存症は病気と扱って間違いない。一旦依存症になってしまうと、その行為を止め続けない限り回復していくことは困難になる。ブレーキが壊れた車が壁にぶつかるまで止まらないことと同じように、回復に向かう当事者たちは、自分のギャンブルが病的であることを理解している。

一度行動に走ってしまうと外からの力が働かない限り、もう止められなくなってしまう。まさにここに病気の根深さが感じ取れるだろう。

お金があればあるだけ使い、なければ金策に走り、ギャンブルに勝てばもっと勝ちたくなり、負ければその負けを取り返すかのように勝負にこだわる。
まさに、こういった過程で病的賭博が形成されていくのだろう。

回復するためには治療が重要

未だに依存症は自分の意志で何とかやめていけると思っている社会が多く存在する。実際に強い意志でやめ続けている人達が居ることも事実であるが、当事者たちは意志だけではどうにもならないことを理解している。

日常生活において、彼らの前には、その行動(ギャンブル)につながるきっかけが山ほど積み上がっているのだ。コンビニの雑誌しかり、一万円札を見るというそんな単純なきっかけでさえ欲求が入ってしまう。

それらの欲求と戦うには意志の強さだけではどうにもならない。
専門治療施設につながることや自助グループへの参加が回復には大きな助けとなるにも関わらず、当事者やその家族などは意志の力に固執し、依存問題を更にこじれさせてしまうことが多い。

社会資源についての理解が乏しいだけではなく、依存問題を自分たちで収めようとすればするほど問題は複雑化する。
精神保健福祉センター
そもそも↑の様な社会資源を知らない人も多く、そこにたどり着くまでに多くのものを失い、つながる気力すらなくなってしまうのだ。

保険適用は賛成?反対?


タイトルにも書かれているとおり、依存症治療における保険適用をどう考えていくかが課題となっている。

国民の大事な税金なんだぞ!自己判断でギャンブルを楽しんでいる奴らになんで税金が投入されなければいけないんだ(怒)

まぁ、おっしゃる怒りはなんとなく理解できる部分もある。しかし、今回の医療保険適用に関しては、「集団治療プログラム」などを対象に検討が進む。

今後この「集団治療プログラム」の定義も含めて議論がなされるのだろうが、いわゆる院内のミーティングをより構造化し、治療として取り入れる流れが厚生労働省としてあるのかもしれない。

社会の中で、依存症の回復に向けて、自助として活動している多くのグループ(AA、NA、GA、SA、OA、EA、CoDA)が回復に大きな成果を出しているモデルを、今まで以上に医療の中に取り入れ、回復の一助として活用する流れには大いに賛成できる部分はある。
同時に、自助グループであることの強みがなくなってしまわないかという不安もこの保険適用を考える上で配慮すべき点だと個人的に感じる。

これまでの依存症治療に関しても、保険適用の範疇であったものの、病院内における治療プログラムは施設に委ねられている部分が多かったといえよう。特に、精神科等の診療報酬加算の算定に関しては、複雑なものが多く、治療プログラムを構造的に行っている専門病院は極めて少ない印象がある。

保険適用のメリットには、精神科などで安定した枠組みの中で治療につながれる患者が増え、依存に関する社会の理解が進むことが予想される。潜在的な病的ギャンブル依存症者にもスポットライトが当てられ、相談機関や専門病院が増えるだろう。

特に、当事者の家族は相談できる機関が増えることで依存問題をひとりで抱え込まなくて済むことは大きなメリットになる。ギャンブルに関するブレーキが壊れているのだということを理解した上で当事者と向き合い、「底つき」が幾分か早くなるだろう。

また、精神科などでは、外部協力者として自助グループのメンバーが病院などに訪問し、メッセージを届けるなどの活動をしている。私自身地域で行われている一般向けのミーティングに参加した経験もあり、ミーティングを当事者やその家族に運ぶことの意味を徐々に体験を聞くことで理解してきた。

オープン・スピーカーズ・ミーティング
今、回復し続けている当事者たちだからこそ語れるメッセージが病院内に入ることは、依存症治療の大きな前進ともいえる。

では、残された課題とはなんだろうか。
専門医やコ・メディカルの育成課題や病院による患者の悪質な囲い込み問題、自助グループへの橋渡しなどの連携課題、社会復帰を見据えた外来治療の構造化など考え出せば多くの課題が浮かび上がる。

まさに、保険適用に向けてこれらの課題を丁寧に説明できるよう議論すべきであり、慎重な検討と現場の声をすくい上げる必要があるだろう。

まとめ

カジノ事業を誘致するための小手先の依存症治療の保険化だけは避けてほしい。その他にもTwitterなどでは、タバコやギャンブル依存症は保険の対象になるにも関わらず、不妊治療や妊娠出産の保険適用に関してまず手厚い施策が必要なのではないかというツイートがバズっている。

また、ギャンブル依存症だからとひとくくりにまとめてしまうと問題の本質を見失ってしまう。依存問題の背景にある疾患にも目を向け、主治医をはじめとするコ・メディカルとも連携していくことが大事な過程であり、その先にある自助グループにつながれるまでの流れをモデルにするなど、今まさに回復し続けている人の力が大きな財産になるだろう。

もちろん依存症は病気であり、治療すべき対象ではあるものの、限りある財源の中から優先順位や今やるべきことをまともな大人たちが議論する必要があるだろう。




自首は回復への遠回り。ホリエモンの正論がポンコツ杉村太蔵をメッタ打ち

日曜日の朝のアニメ帯が終わり、将棋番組がひと段落したところでいつもTBS系の情報番組「サンデー・ジャポン」を見るか、フジテレビ系の「ワイドナショー」を見るかで迷う。先週から引き続く沢尻エリカ容疑者の話題が挙がるだろうと思い、今日は「サンデー・ジャポン」にチャンネルを合わせたわけだ。

よくぞ言ってくれた!ホリエモン!


ひとしきり沢尻エリカ容疑者の過去の友人関係、現在のクラブ事情、よくわからない関係者のインタビューが紹介され、MDMAがどんなに怖いものであるかという印象を与えた上で、スタジオに意見を求めるという構成。

芸能界に薬物汚染が蔓延しているかのような口調でナレーションが入り、「某デザイナー」や「某女性タレント」といった視聴者の想像を駆り立てるような煽りをしながら薬物のルートや疑惑の人間関係に話を持っていく。

 

そこで口火を切ったのがポンコツの杉村太蔵だ。(割とキャラは好きなのだが・・・)
「薬物を使用している人は、自首してちゃんと反省した上で治療に結びついたらいい」

一見まともな意見だと感じるが、ここに大きな隔たりがあることにお気づきだろうか。
そこですかさずホリエモンが言い放つ。
(薬物を)やめるのはいいけど、自首しろっていうのは言いすぎだろ。
ホリエモンのこの言葉は、まさに今薬物依存症で苦しんでいる人たち側からの視点を取り入れている言葉だ。彼ら彼女らにとって「自首する」ということは、社会から排除されることとイコールなのだ。
加えて「自分でやめればいいんじゃないか」という言葉を添えており、治療の必要性と捕まるだけでは解決しない薬物問題の根深さをうまく表現した言葉だと感じた。

沢尻エリカ容疑者のテレビ復帰に関して、ポンコツ杉村太蔵の「法を犯した人に対して、厳しさを示すこと」に対して、ホリエモンのツイッターでは「一発アウトとかおかしいでしょ普通笑」と真っ向から否定した。
ホリエモンTwitter引用
厳罰化すりゃ犯罪減るって思うのは浅薄だし、厳罰化は社会を不自由にする」とした上で、「そもそも、ある程度麻薬などは合法化したほうがいいのに」と激論を交わしていた。
Twitter引用の後半のコメントについては別の記事で取り上げるとして、厳罰化=犯罪減少が必ずしもそうでない部分は大きく共感を覚えた。

実は治療過程では自首は遠回り

ポンコツさんが放つ感情論だけでは依存問題は解決に向かわない。やはりこの依存問題に関しての議論は避けて通ることはできず、根拠となるデータと当事者たちの声を取り入れた支援の在り方を思案すべきだろう。
実際のところ、薬物問題は司法的な厳罰を与えると本人は治療から離脱してしまう。もちろん犯罪を犯したのだから罪は償わなければいけないのが法治国家というものだ。

しかし本当にそれは本人のためになる施策だろうか。

彼らが自首して治療から離脱してしまうことでさらに社会復帰が困難になることをマスコミは考えない。
ただ、そういった社会資源に助けを求めることが苦手な本人たちの特性と受け入れがたい社会全体の問題も背景には隠れているのも事実。

番組の中でデーブスペクターが話していた「海外では、違法でありながらも刑罰から外すという取り組みもしている。ただ、販売人は捕まえるというシステムも国によってはある。」こういう事実なども含めて、薬物依存全体についての施策がより当事者たちに沿ったものになることを期待する。