本紹介:バツイチの子供たちへ

ふと本棚を見上げてなにか本を紹介したいなと目に飛び込んできたのがこの一冊の本。15年ほど前の心理学の講義で紹介され、なって当時の古本サイトで探して購入したこの書籍。
当時、虐待や愛着障害に関する本を読みあさっていた時期であり、支援や保護に関する知識を勉強していたが、当事者、特に子供に焦点を当てたインタビューは珍しかった。この本ではバツイチの子供にインタビューし、子供が感じる葛藤や親や家族のかたちを記録したもの。

「読むべきなのは、大人たちのほうだ」とはじまるこの本は、まさに大人の読み物。離婚問題で取り上げられるといえば、シングルになった母親のその後や、モラルのない夫や虐待などを繰り返して苦しい思いをする家族というのが定番だろう。しかし、この本ではバツイチとなった子供たちに焦点を当て、その生きづらさや苦しさをインタビューしまとめられたものだ。
第一章/宿命
第二章/血縁
第三章/目撃
第四章/親権
第五章/再婚
これらの目次から構成され、その内容は咀嚼するには時間がかかるものが多かった。わたし自身この本を読みきるのに数ヶ月かけた思い出がある。
それほどまでに、読むのにエネルギーがいる書籍だ。

 

第一章では、子供の視点から家庭が壊れていく様が描かれていたり、なるべくしてなった離婚問題や家族内の葛藤が表現されている。

第二章では、血というしがらみが、子供だけでなく周りをも巻き込む問題に発展していく様子が描かれる。

第三章では、バツイチとなった子供から見た親の姿が描かれるだけでなく、父性、母性、両親像が子供に与えた影響がまとめられていた。

第四章では、親権という大きな拘束が兄弟姉妹を引き裂き、本当の母親との再会や拒絶に関して語られていた。

第五章では、再スタートに向けたそれぞれの葛藤と受け入れがたい事実とそれを飲み込む子供の大変さについて迫り、家族とはなにかを考える。

まとめ
読むごとに心のエネルギーがゴリゴリ削られる読み物となっており、人によっては嫌な記憶が思い起こされるものになるかもしれない。ここの描かれているインタビューはまさに生の声。痛々しくも生きていく上で、親の都合とも言われるバツイチの問題に子供が振り回されている現実がまじまじと伝わってくる。きっと今でさえ、声にならない声がどこかで上がっているのだろう。
離婚問題は確かに親の問題ではあるが、その結果子供にどんな影響が出るかについても親は熟考しなければならない。
「親だって人間。自分の生き方を好きに生きたい。」思いも大切ではあるが、周りに与える影響も考慮に入れて、自由と義務はしっかり果たしていきたいものだ。



依存問題のカミングアウトにどう向き合うか

友人、家族、職場、あなたの依存問題についてしっかり話し合える相手はいますか?以前の記事でも書いたとおり、私個人の意見としては、たとえその依存が違法なものであったとしても、通報よりも治療に結び付けることが最善策だと思う。
そのための第一歩としてカミングアウトをいかに上手くして、周りの協力を得るかが回復の鍵となる。


依存症は関係を破壊させるもの

わかりやすいところで薬物依存を始め、ギャンブル(違法・合法)、アルコール、買い物、恋愛、性、関係、物質、精神など様々なものに依存しながら私たちは生きているのは紛れもない事実。これぐらい大丈夫と思っていたものが、その依存中心の生活を送ることになってしまうのが依存症の怖いところ。まさに、本来の自分の生き方ができなくなってしまうこと。大切にしたかったものを簡単に破壊してしまう。本来大切にしたかった優先順位が依存によって変わり、生活がその依存症中心の生活になってしまう。
きっと治療につながるまでにいろんなものを失い、周りに迷惑をかけてしまうかもしれない。しかし一番の犠牲者は自分であることも確か。治療に本腰を入れるときあなたは何にすがればいいのか。はたまた、すがらずに自分で生きていくためにはなにか必要になるか。その時、あなたはどうやってカミングアウトすればいいののか。
依存していることを話すのは負けたような気がしてどうもカミングアウトできる気がしないあなたは少し足を止めていただきたい。



カミングアウトはチャンスか甘えか

家族や周りの人間に依存問題について理解と助けを求めることは自分の問題を認める第一歩となり、依存問題と決別する最大の機会といってもいいだろう。これまで嘘で固めていた偽りの生き方をじっくり認め、本来の生き方を取り戻す大きな一歩でもある。
「もう嘘をつかなくて済む、肩の荷が下りた」など、これまで抱えていた負担がいかに大きかったか実感するだろう。依存症は否認の病であることはよく知られている。だからこそ自分の依存問題を認めるところから始めてみるのもいい。カミングアウトすることで問題解決の一歩が始まるといってもいいだろう。勇気のいる行動であるが、カミングアウトは回復のチャンスというわけだ。

その反面、依存症は甘えだと言う意見も一般にはよく聞く。
「本人の自己責任だ。意志が弱いからそうなったのではないか。甘えでしょ。」などの厳しい指摘があるのも事実。きっと当事者たちは、このような声掛けによってカミングアウトする気持ちすら削ぎ落とされてしまうのだろう。

依存症者は周りに何を期待するべきか

カミングアウトする側は、周りに多くを求めないほうがいい。
なぜなら本当に理解を示してくれる人間は極端に少ないからだ。5人いれば4人は否定してくる、そう思うぐらいがちょうどいい。
私たちが探すべき相手は残りの1人だということを忘れてはいけない。
なにはともあれ、カミングアウトできた自分を褒めてあげることから始めてみよう。きっと勇気のいることだろうし、誰にでもできるわけではない。周りにどう説明したらいいか分からず、眠れぬ夜を何度も過ごしただろう。時には、カミングアウトのことを考えすぎて、日常生活に支障をきたしてしまう人もいる。

それほどまでにカミングアウトというものはエネルギーを使う作業である。
告白によって人間関係が変化したり、友人・知人を失ってしまう人もいるかも知れない。それほどのリスクを踏まえてまで告白した自分を十分褒めてやるほうがいい。

まずは誰にカミングアウトするか

誰にでもカミングアウトすればいいという問題でもない。上述したように、理解者から順を追って告白することがコツといえよう。身近であればあるほど勇気とエネルギーが必要になってくる。SNSなどを活用しながらまずは仲間を見つけることから始めてもいい。
自助グループなどきっかけに、自分の抱える問題を話せる場を必ず持っておくことが回復には大切だ。依存症者にとって否定されない、攻撃されない体験は依存からの回復過程では重要な体験になる。話せてよかったと思える体験を積み重ねることが良質のカミングアウトにつながるのだと思う。

けれども期待はしてはいけない。

家族にカミングアウトしたところで劇的に何かが変わるなんてほとんどない。
受け入れてくれる人などほとんどいないと頭の隅においておきながら、確実に仲間を増やしていってほしい。

一人で依存問題を抱えすぎず、『自力(じりき)』ではなく『他力(たりき)』を知ることも大切。



身近に起きうる性被害とトラウマ・ケアを男性はあまり知らない。

ここ最近になって男性の性被害にも焦点が当てられるようになってきましたが、やはり圧倒的に多いのが女性に対する性被害。加害者は、それほど深刻に思っていなかったとしても被害を受けた当人はとても苦しい思いをする。軽傷だったから問題ない、未遂だったから大丈夫という問題では済まされない。被害者が感じる心理的負担やトラウマ・ケアの実際とはどういうものか。


記憶は色褪せない


「もう過去のことでしょ。過ぎ去ってしまったことを今さらそんなに考えても仕方ないよ。あなたにも非があったんじゃないの。いつまで引きずってるのさ。」
被害者へのこのような声掛けがさらなる二次被害を生み出してしまう。セカンドレイプはこうやって繰り返されてしまう。被害者であるにも関わらず、周りから心無い声掛けを浴びせられるとそれだけで心が消耗する。警察等での取り調べでは、事の詳細や何をどのようにどうされたかなどを根掘り葉掘り聞かれる。ただでさえ性被害に合い苦しい思いをしているのに、加えて辛い体験を語らなければいけない。
被害にあった記憶は脳に刻み込まれ、自分の中に落とし込む作業は、一体どれくらいの時間がかかることなのだろうか。もしも自分に・・・と想像するとそれは一生抱える辛い経験になるだろう。

トラウマが軽んじられている!?

少しきつい言い方をするが、トラウマという言葉が日常に定着しすぎていることに違和感を感じてしまう。
もちろん悲惨な恋愛はあるだろうが、恋愛においてよく出される「前の恋愛はマジトラウマだった。」というような経験は本来のトラウマ経験とは異なる。たとえ悲惨な恋愛だったとしても、それは時間が解決したり、癒してくれる部分があるのが思い出のいいところ。
しかし、トラウマはそうはいかない。
あの時の感情が鮮明に色褪せず、言葉にならない感情と苦しさでどうしようもなくなる。自分の中だけでは収められない感情は、多くの症状としてあらわれたり、時には行動化してしまうこともある。
虐待や被災、人災などの命に関わる体験が身近にあった場合などは、それがきっかけとなることも多い。
きっと日常会話では、自分の体験がいかに大変だったかを説明する役割として「トラウマ」という言葉が定着しつつあるのだろう。



被害にあった時に現れる3つのF

トラウマ・ケアの専門書にはよく出てくる有名なFをご紹介

①Fight(戦う)
被害にあったことに対して立ち向かうこと。
恐怖心やトラウマ体験と向き合うとてもエネルギーが必要となる作業。
被害体験と戦い、一生懸命乗り越えようとする。
生きていく、生き抜くために受け入れ性被害等に立ち向かうこと。
つまりはサバイバー。
しかし、誰しもそれを乗り越えられるわけではなく、戦いに終わりは無い。

②Flight(逃げる)
嫌な感情から逃げる作業。
整理できない耐え切れない感情から逃げることで生きていく。
周りの人間との接触を極力避け、感情を鈍麻させ生き延びようとする。
なんとか生きるための行動。
逃げていいんです。なにも悪いことではない。

③Freeze(固まる)
被害にあった否定的な感情が生き方全体に影響し、どうしていいか分からず固まってしまうこと。否定的な感情は、自分自身をこれまで以上に蝕み、自暴自棄な感情に包まれたり、自分を大切にできなくなってしまう。
整理できない感情は、時として身体症状に現れあなたやあなたの周りさえも傷付けてしまう。
身動きがとれなくなり、傷つき体験をさらに重ねてしまうこともある。
動けなくなることは辛いこと。時計の針が止まってしまったように苦しい。

回復の為には

安全で語れる場を持ちましょう。
抱えきれない思いは、ひとりではどうにもできません。
安心感や安全な場所でゆっくりと語るためには、受容的な人に話を聞いてもらうのもいいでしょう。(ただし辛さにつけ込む人の判別は必要です。)
でも、語ったからといってすぐに回復できるものでもありません。時間をかけてそのトラウマと向き合うことになるでしょうから、焦らず気楽に向き合う気持ちも持っておきましょう。
過去の辛い経験を語る上で「今、ここで」の感情を忘れないことが重要。
過去と今をしっかりと分けて考えながら「今語っているのは過去のことだ」ということを客観的に抱えておく作業が必要になってきます。

辛い気持ちには、名前をつけたりしながら程よい適切な距離感を保つことが大切。

今を生き抜くために、何かに依存してしまうリスクも考えながらトラウマとは上手く棲み分けを行っていかないとその渦にすぐ飲み込まれてしまう。

考え方をすぐに変える必要はない。
そんな簡単に考え方など変わるものではないから。

ゆっくりと感情を出す作業を繰り返し、危なくなる「サイン」に気付くことさえできれば、そこに対処法を差し込む隙ができる。
トラウマ感情に気付いたり、自分の感情や行動を「調整」したりしていくことが回復につながる。

トラウマ経験だってあなたの人生の一部であり、大切にしていかないといけないもの。ただ、あまりに大きいと抱えていられないので小さく小さく折り畳み、ポケットに収まるサイズにしていくことこそが、トラウマと上手く付き合うことなのかもしれない。



承認欲求を手放す作業

TwitterやInstagramには、自己顕示欲の塊のような人間が星の数ほどいて、彼ら彼女らは「いいね」をもらうために日々身を削っている。時には過剰にも思われる肌の露出やきわどい写真、見たこともないような高いお肉の写真を載せながら自分の価値を必死に高めている。

いやっ、実際には高めているかのように振舞っているのが大半なのかもしれない。フォロワーの数やいいねの数に左右されながら、人の目ばかり気にしている。

生きていくためには、周りにどう見られているかを意識することは大切であるが、果たしてTwitterに投稿される承認欲求を野放しにしておいて、私たちは本当の幸せを手に入れられるのか。また、そのような呪縛から解放されるには、何を考え、どう行動していくべきかについてこの記事では取り上げたい。

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人の目を気にしない3つのポイント

誰もあなたに関心なんて持ってないことを知る

まずはここに気づくことがあなたの悩みの負担を減らすだろう。学校のクラス、職場、バイト、SNS、人間関係は多様に存在するが、周りの人はあなたのことにあまり関心をもっていない。
つまるところ、人は自分のことで精一杯なのだ。
そういう意味では、刹那的な思いを掃き溜めのように積み上げていくTwitterなどは、ストレスのはけ口としては有効だろう。
(ただ。発言したと言う事実は残るが)

誰も注目していないのであれば、あなたの好きに生きればいい。

たとえ失敗したとしても、誰もそこまで気にしてないし、そのことを鮮明に覚えているわけでもない。周りからしたらあなたも他人のひとりであることを心にとどめておくだけでも心がスッと軽くなるだろう。できることなら失敗は避けたいものだが、それに囚われて身動きがとれなくなる人もきっと多いだろう。

少しでも生きやすい生き方を選択していくことがあなたらしく生きることにつながり、しいては生き方そのものを変化させる。人のためのTwitterではなく、あなたがしたいことの表現がTwitterで表現されるのを切に願う。

②問題は分化して、コントロールできるものとできないものに気付く


問題が山積みになると、今どれが優先すべき問題かなどを見失ってしまう。さらにいえば、その問題が果たして自分の問題なのか、相手の問題なのかを見極めていく必要も出てくる。
「そのストレスは本当にあなたが抱えなければいけないストレスか」を問い直すことで見えてくるものがあるかもしれない。多くの人達がここで巻き込まれてしまう。抱えなくてもいい問題まで背負ってしまい苦しくなる。

家族問題を例に挙げると、父親や母親のいいなりになっていたり、機嫌を伺うような必要以上の配慮をしていないかどうかを見直してみるのもいい。あなたが成人ならなおさらだ。経済的に家族からの支援が必要な場合も多々あるが、だからといって奴隷になる必要はない。

親の機嫌は親自身が取ればいいわけで、子どもの役割ではない。固定化しやすい家族問題などでは当事者は身動きが取れなくなることが多い。だからといって親の問題まで抱え込まなくてもいいことを頭に入れておいたほうがいい。




加えて、その問題がコントロールできるものかそうでないかを判断していくスキルが必要になってくる。コントロールできない問題をコントロールしようとすると、そこに無理が生じてさらなるドツボにはまりやすい。

人間関係を例に挙げると、相手が自分をどう思っているかなどは、コントロールできないものであることを理解しておく。反対に、自分がその相手にどう振舞うかなどは、自分の「行動」なのでコントロールできるものだとわかるだろう。
問題の分化(分けて考えること)は問題の本質を見失わないためにも必要であり、人の目を気にしないためには、自分の問題に焦点を当て取り組むことが求められる。

③選択できる自分に気付くこと


コントロールできるものに集中すること。
つまりは「自分の行動」に集中することが生きやすい生き方につながる。
それが失敗しようが成功しようが、行動したことに対する事実は残る。
人の目の呪縛から解放されるには、人にどう見られているかよりも「自分は何をしたか」という主体性を大切にしていくこともひとつの選択肢だ。
これらからわかるように、私たちの目の前には選択肢が実はたくさん存在する。しかし、メンタルが弱っていたり、そもそも抑圧されて育ってきた人達にとってはその選択肢が見えなくなってしまっていることがよくある。

それゆえに行動に関しては、「できるだけ確実に実行できる行動」から始めるといい。失敗しないように、確実にできるスモールステップがあなた自身の自尊心を着実に外側から固めてくれる。今の現状を十分にアセスメント(査定)しながら適切な課題設定をすることが承認欲求に囚われないコツでもある。

まとめ

まず多くの物事は、あなたが選択できるということを知っておく。周りの評価は付きまとうものであるが、あなた自身の評価を決めるのはあなた自身だということに気付けば背中の荷物は少し置いておくことができる。
感情だってそう。
相手の感情を無理やり変えるのは、魔法使いでもない限り無理だろう。
だからこそ、せめて自分の感情は自分で決められるということを知っておくことこそが生きやすい生き方につながる。
Twitterなどの簡単に得られる承認欲求はまさに「麻薬」。
しかし、簡単に手に入れられるものは簡単に失ってしまいやすい。
大切に育て上げる承認欲求を積み上げていきたいものだ。






よく聞く依存症回復の為の12ステップってなあに?

依存症治療につながった人たちなら一度は聞いたことがあるこの12ステップという言葉。なんかややこしそうで、宗教っぽくて、とっつきにくいなと私が感じたのも正直なところ。しかし、どうやら歴史もあるようで、回復の手助けになってくれるこの12ステップ。果たしてこの記事を最後まで見た人たちは、どのように感じるのだろうか。

AA(アルコホーリクス・アノニマス)


自助グループのおおもととなる当事者たちの団体。匿名性が重視され、団体といっても団体としての意見を持たない回復の為の自分たちが運営する集まりとして位置づけられる。
アルコールをやめる(断酒)するために、お互いの飲酒体験を語り合い、今日一日断酒していくことだけを目標に集まる仲間たち。
それぞれの体験に口出しするのではなく、言いっぱなしの聞きっぱなしのミーティングは今日もどこかで行われている。1935年にオハイオ州で始まったのがきっかけで、脈々と全国各地で行われている当事者たちの活動。多くの依存問題に共通する12ステップに各々が向き合っていく作業。12ステップこそが回復への第一歩であり、多くの回復者たちがこの問題に取り組んできた。AAの「アルコホーリクス・アノニマス(通称ビックブック)」にはその内容が詳しく示されている。


多くの依存症者がつまずくステップ1


この記事では12ステップ全部は取り上げない。
なんならステップ1しか取り上げない。
多くの人が、まずこのステップ1を乗り越えられないからだ。

「いやいや、ステップ1からつまずくなんてやる気あるの?ステップ1なんて最初の第一歩でしょ。」
こう思われる方が多いのも事実。
しかし、思った以上に難しいのがこのステップ1。

ステップ1
『私たちはアルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。』

自分が依存症であることを認める作業こそが、最初の一歩であることを示している。ただ、自分が依存症であることを心底認めるということは辛い作業でもある。

否認の病といわれる依存問題


誰しも依存症だと言われればいい気持ちにはならないだろう。
「自分は愛好家だから大丈夫。うまくコントロールできている。もっとひどい人を私は知っている。」などいくつもの依存を認めない言い訳を探してくるだろう。

ただ、本当の依存症患者は理解していると思う。

ステップ1で示されている様に、自分の思い通りの生き方ができなくなっていることに。依存症は否認の病であり、自身の問題性を認めるところから回復が始まる。



Q,ではなぜ依存症者は否認してしまうのか。
それは依存を認めてしまうと、全てを否定されたかのように感じる人も多いからではないかと私自身は感じる。認めることが全てを否定することにつながるのであれば、やはり認めたくない気持ちもややわかる。
だからそこステップ1が一番つまずきやすい。
自分の依存に関する問題を心底認められている人は回復に向かいやすい。
依存問題を目の前に「自分は無力だ。」と言えるかどうか。
回復に身を委ねられるかが12ステップの最初の壁だと思う。

ところで、この記事を読んでいるあなたは、自分の依存に関して何を思いますか?




愛では依存症は治りません。治すためには○○が必要!!

依存症とは、いわばブレーキの壊れた車に乗っているようなもの。ぶつかるまで止まれない。そして、大クラッシュした時には、周りに多大な迷惑をかけてしまう。そこに愛の力が入る余地はあるのか。また、入ったところで本当に治るのか。

残念ながら


愛では依存症は治らない。
むしろ愛という曖昧なものが依存症を悪化させる原因にもなる。
むかし、薬物で逮捕されたAさんの先輩が「もう二度と薬物なんかに手を染めないようにヤキを入れて根性を入れ替えさせてやりますよ。」などと、愛の力で問題解決を図ったという。しかし、そのAさんは再逮捕され刑務所に収監されることになった。

この先輩の愛は果たして本物だったのだろうか。

私はきっと本当の心配からくる純粋な愛だったと思う。
しかし、なぜAさんはこの愛では更生できなかったのだろうか。
先輩の愛が足りなかったのだろうか。
ヤキの効果が弱かったからまた薬物に手を染めたのではないか。


説教なんかじゃ響かない


説教や叱責によって相手は一時的に依存から離れられた様な錯覚を覚える。しかし、その錯覚からあっという間に目覚め、「この人の前ではやめておこう」などという考えが生まれやすい。依存症者もバカじゃない。反省の色とうまい言い訳さえあれば大概の人は騙せてしまう。
つまり依存症に関して説教は効果を発揮しにくい。

Aさんの薬物依存に関しては、精神依存が主な症状であるため、目に見えた依存症状はさほどでない。つまりは外から見たところで依存に問題を抱えているなんて見分けがつかない。
反省の思いや薬物をやめようとする気持ちがあったとしても、精神依存はそれらのハードルをいとも簡単に越えてしまう。
一旦依存症になってしまうと、気持ちや意志の強さだけでは回復できない。

できもしない約束をさせる周りが悪い?

はい。まさにその通り。
その辺りから本人への対応を見直す必要があるでしょう。

あなたは慢性の糖尿病患者に
「気持ちを強く持てば病気は治る。ヤキ入れてあげるので何とか血糖値をコントロールしてください。」とは言わないはず。

本人の意志は、依存症から回復するためのきっかけには利用できても、やめ続けるための強力な武器とはなりにくい。

そもそも、できもしない約束を取り付けたとしても、周りは裏切られる体験を重ねてしまうだけである。そんな約束で関係が悪くなるのであれば、きっとそれは今の本人には荷が重すぎる課題なのだろう。
課題が失敗→関係が悪化→依存症から回復する気持ちも減少。
負のスパイラルから抜け出すためには、適切な課題設定が必要。



周りがする課題、本人がする課題

家族は本人との境界線を十分意識して手を引くことが大切。つまりは手放す準備をしていかなければいけない。手放すことは見捨てることではない。本人のペースはどれぐらいかを専門家と話し合ったりして見守る必要がある。
そしてこの見守ることがめちゃめちゃ難しい。
口を出したい、責めたい、やり方が悪い、そんなんじゃダメだなどと言いたくなる気持ちを抑え、グッと耐えなければいけない。
その過程で多くの人間が巻き込まれる。
良かれと思って言った言葉や行動が裏目に出てしまう。結果、関係はさらに悪化してしまう。だからこそ本人の問題は本人に返そう。

余計なおせっかいは依存症をさらに維持させる原因につながる。
家族は本人との境界線をしっかりと引くことを肝に銘じておかなければいけない。
共依存からの抜け出し方

本人の課題は明確である。
その日一日を何とか乗り切るための方策を考えること。
依存症にもよるが、年単位や数か月単位の目標など立てなくてもよい。今日一日をどうやってその依存症と離れられるかを考えること。そこだけに力を注ぎ込む必要がある。

失敗してもよい。
次の日をまた一日目とカウントしながら依存症と向き合えばいい。
回復することを諦めないのが一番重要なこと。






摂食障害になる子ってどんな子?

不合理とも言える食行動を繰り返しながらも、その行為に依存し、命を危機的な状況にまで自ら追い込んでいる摂食障害者には、なにか共通するものがあるのではないか。また、摂食障害になる子の特徴には、どういう背景が隠されているのか知りたくありませんか?

 

性格と摂食障害

多くの摂食障害や依存に関する論文では、ある程度の通説と呼ばれるものがあります。そしてその特徴のひとつとして、「昔から手のかからなかった真面目な子」が挙げられます。なぜ真面目なのに病気になっていくのか。そもそも、真面目な性格と病気って関係あるのか。などと感じる人も多いでしょう。ここで書かれている真面目さにはどのような意味が含まれているのでしょうか。今回は、摂食障害になりやすい人の特徴と、その原因について触れていくことになるでしょう。
食べることで一体何を満たしていたのか、果たして本当に満たしたかったのは食欲なのか。食べ続けることは簡単でもあり苦しいことでもある当事者に共通する課題とは何なのか。
異常な食行動に固執してしまう背景にはどんな機能が働いていたのかに迫ります。

 

どういう過程で摂食障害が展開するのか

主に摂食障害は、10代~20代前半の女性に発症することが多く、男性の10倍ほどの発症率が示されている。今でこそSNSなどで公言する人もいるが、昔は今以上に隠れてこっそり生き抜いていたのだろう。
過食症を例に挙げると、その食べる量は通常の買い物とは思えないほどの量を購入する傾向がある。ひとつの家族が菓子パンなどを購入する際、食パンや人数分の菓子パンを買うのが一般的なものだとしたら、過食症患者が買う菓子パンの量はその何倍にもなる。もちろん人それぞれ過食の量に差はあるものの、買い物かごいっぱいの菓子パンは通常ではありえない違和感を感じる。まさかこの量を一人で、また1食で食べてしまうなどと誰も想像できない。

 

当事者たちは病識を持っているものが多く、知的にもやや高い印象を私個人は持っている。病識(自分が病気であるという認識)をもち、問題を大きくさせないように努力を重ねながら生活している人たちを私は知っている。そして、自分の食べる量が異常であるという認識も充分持っている人が多い。

もにも関わらず、発症初期段階から精神科に関わる割合は少ない。
以前取り上げた記事にも、過食嘔吐に共通する【他人を頼れない病い】が根底にあるのかもしれない。
カショオ女子 ~摂食障害にみられる関係依存の問題

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食欲には抗えない

過食のケースについて考察すれば、彼らの食欲は一種の囚われを感じさせるほどの勢いがある。
詰め込むまさにそんな感じだ。
ひとつひとつの食材を味わって食べているようにも感じるが、むしろ何か感じることを鈍麻させるかのごとく食べ物を次から次へと胃に押し込める。食欲のスイッチが一度入ってしまえば止まらなくなる。自分の意志ではもうどうにもならないほど『食べたい』思いと『本当はもう食べたくない』というアンビバレント(両価的)な感情に支配され、スーパーなどに向かってしまうのだ。

摂食障害者の中には、『どうせ吐くから』と言って万引きする者もいるが、物事の善悪を理解している人や社会性に優れている人も圧倒的に多い。
しかし、食費が馬鹿にならないのも確かで、当人たちはスーパーなどの半額の時間帯を考慮に入れながら食べる活動を維持させる。

 

食べることで満たされるもの


感情に鈍感な人というよりは、感情を表に出さない人が多いのではないだろうか。多くの問題を自分だけで抱え込み、誰にも頼らず、甘えず、本当は助けを求めたい感情を食べ物で押し込めているのではないだろうか。
まさに、『真面目』そのもの。
本来違った形として出てきて欲しいこの真面目さが、食欲とつながってしまっていることこそが問題をより複雑化させる。
食欲が満たされると安心感や不安な気持ちが軽くなる。一時的であろうが、問題を棚上げできるという効果こそが当人たちの求めていることだったりする。

つまり、癒してもらうためには過食することが必要だったということになる。依存症問題に出てくる『自己治療仮説』がまさにこれにも当てはまるだろう。
過食を維持できているからこそ生きていられるということ。

病気を理解していない周囲の人間にとっては、ただ食べて吐いているだけに感じるだろうが、この行動にも重要な意味が隠されている。

食べることを止めることは死を意味すること

だからこそ、摂食障害者の行動は無理に止めてはいけない。
説得したり、言いくるめたところでその行動は止まらない。
過食するからこそ生きていられる患者がいるということを理解しておかなければ、当人を助けるつもりで言った言葉が鋭利な刃物となり、寿命をさらに縮めることにつながる。

本来抱えていた食べたくなるような感情に向き合う時間を主治医などとしっかり話していくことこそが治療なのではないか。
処方薬を出されるだけの、3分診療になっていないだろうか。

本来真面目でいなくてはいけなかった問題には着手できているのだろうか。

自分の問題が維持していることの意味や人に頼れない背景についても語られているのだろうか。

処方薬も大事であるが、精神科だからこそできる治療につながっているかを再確認したほうがいい。

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なんで家族って私をあんなに監視してくるの?

この言葉は、とある依存症患者が何度もつぶやいていた言葉で、私に強烈な印象を残した。この言葉には、「なぜこんな苦しい思いをしているのにさらに家族は私を苦しめるのか」という裏のメッセージがきっと含まれていたのだろう。実際に依存症患者は、家族に監視されているかと言われれば「監視されている」と私は思う。それはなぜなのか。

①そもそも家族はあなたを信用してない

それもその筈、家族からすると裏切られた記憶のほうが圧倒的に強いからである。家族も何度となく本人の「今回だけ」を信じてきただろう。しかし、その約束は、いとも簡単に破られ、時間をかけて関係性は悪化の道をたどってきた。本人の病識(自分が病気であるという自覚や病気に関する理解)の有無が回復には重要な意味を持つように、家族からの支援も回復には重要な意味を持つ。
その家族が常に疑いの目であなたを見てくると、あなたのエネルギーはどんどん減っていく。これほど辛い思いをしながらも、依存症患者自身が家族に歩み寄らなければならない現実がある。
しかし、残念なことに患者自身はそこまでのエネルギーがないことが多い。理解を得ようにも家族が機能していなかったり、そもそも援助希求能力(素直に助けを求める力)が極めて低いため、事態が大きくなってからでないと助けを求めることができない者も多いだろう。
結果として、多くの家庭で監視の目がこれまで以上にひかり輝き、負のスパイラスが構築されてしまう。信頼を取り戻すためには、時間がかかり、かつ、時間をかけたからといって簡単に回復するものでもない。

 

家庭環境が機能していない

家族が信用してくれないのと並行して、そもそも家族が家族として機能していない場合がある。機能不全家族と言われるものがそれにあたる。要するに、家族が不安定で、家族という機能を果たせていない場合、家族がそもそも助けを求められる存在になっていない。
子どもの頃に当たり前のように起こる感情や問題を感じさせないようにしたり、安全に愛され、受け止められる体験を十分に持てなかった家庭では頼ろうにもどうやって頼ればいいかわからないだろう。もちろん完璧な家族がいいというわけではない。しかし、本来頼れるべき相手がいるにも関わらず、頼れない場合、本人は自立を余儀なくされる。
そのくせ問題を起こすなと言わんばかりに監視し、文句ばかり言ってくる家族がある場合、もうそれは不幸でしかない。

家庭内では真面目で気を遣いながら、親の顔色ばかり気にして「いい子、真面目な子」を演じてきた子どもにとっては、「真面目でいること自体が自分の存在価値になっている」者もいるだろう。子どもの感じる息苦しさは、時として症状に現れ、SOSサインに気付きながらも落ち着いていることを理由に現状維持してしまっている親はまさに毒親といえるだろう。

家族が重い足かせとならないように、機能不全家族に関しては、適度な距離感を保つ必要がある。

監視の目から逃げるためには

①手っ取り早いのが「行動で示すこと」
あなたがどんなに頑張ろうとも、目に見えない成果を家族は認めてくれないことが多い。逆に考えると、今日頑張れたことの積み重ねがあれは信頼は時間をかけて取り戻せるかもしれない。
じゃあどんどん行動すればいいかと言われるとそうでもない。コツは失敗しない自分に合った少しの努力でできる行動を維持すること。周りは信じてくれなくてもそれを維持しながら成功体験を積み上げることが自己肯定感を少しだけ押し上げることにつながる。今日、今、この瞬間頑張れている自分を受け止めること。それは依存症問題だけでなく、他の疾患にも適用することができるかもしれない。

②そもそも家族に期待しない
過度な期待を家族に持つべきではない。
理解者を家族だけにしてしまうと、不健康になるだろうし、家族に頼らないことも重要なのではないか。ただし、それは家族と断絶すればいいというものでもない。つまり自分で立って人生を歩むことに力を注ぐほうが、より良い生き方ができるかもしれないということ。
「若者よ準備せよ」自分で立つということは現実に打ちのめされるリスクを孕んでいる。まあ、そんなときは同じ問題を持つ仲間に頼るなどしてみてもいいのではないか。