緊急事態宣言中の最中パチンコに行く奴はギャンブル依存症か否か問題

都内で緊急事態宣言が出され、5月6日までの外出自粛が言われる最中、特定の遊戯施設「パチンコ店」にはGW前のこの連休でさえ行列ができている。
なかでも大阪は、休業要請に応じないパチンコ店の公表に積極的に踏み込むなど独自の対策をしている。果たして彼ら彼女らにとってギャンブルをすることは不要不急の事態なのか。依存症の観点から考察していきたい。

依存の問題?趣味の範疇?

依存症全般の定義に共通するように、「コントロールを失うこと」はまさしく依存症と捉えて差し控えないだろう。「否認の病」とも言われるように、彼らは自分が依存症であることを認めることを避ける傾向がある。

「基本的には外に出ることを避けたほうがいい」時期でも「ギャンブルに行くと決めたら行ってしまう」この自己矛盾はまさに趣味の範疇を越えた依存症の問題を抱えている。

一般的な趣味嗜好の範囲であるなら諦めがつきやすい中で、ギャンブル中心の生き方になっている当事者はその諦めの感情と戦い続けていると言える。当事者たちの「ギャンブルを続けたい欲求」と「それを止めたい欲求」が同じ程度存在していることを一般の人たちはなかなか理解できないのが現状だ。

ネットなどでいくら依存症を叩いたとしても、このことに気付くことができなければ助言もその効果を発揮しない。
現在非常事態宣言にある中でも、そこに向かいたくなる気持ちを理解しながら行動自粛を呼びかけるにはそれなりのテクニックも必要になってくるだろう。

「依存症は病気」であることを理解している人たちも、このような非常事態宣言を通じて回復者への支援を声高に上げていく必要がある。

ともあれ、感染症収束に向けて個人単位でできる努力は必要であり、余分な外出等は控える事が今は大事。

もちろん政府が主体となって休業を「指示」する場合には、企業に対して補償とセットでその動向を見守ることが求められるだろう。また、その法律に脆弱性があるのであれば、それも含めて変えていくのが政治家の仕事であり、今こそギャンブル依存症についても大きな一手を打つべきタイミングなのではないだろうか。




大麻摘発増加の3つの理由

近年、大麻事件の摘発が右肩上がりに増加しつつあり、その流れに歯止めをかけるべく、若年層に向けた未然予防教育にも力が注がれているものの、その入手の容易さのハードルは低いままだ。なかでもスマホの普及によって若者でも容易に違法薬物を入手しやすくなり、以前のような「繁華街にいる怪しい外国人から買う」という定番の入手文句は現代ではもう通用しなくなってきている。

大麻3

摘発増加の3つの背景

低価格化と入手の容易さ
曖昧な法整備
薬理効果

1に関しては、スマホの普及により若年層中心に拡大している背景がある。SNS等のダイレクトメッセージや掲示板等のアプリを駆使しながらいわゆる「売人」と言われる者たちは格段に「営業」しやすくなってきた。また、反対に、それらを欲する当事者たちも容易につながりやすくなったと言える。摘発件数増加の背景には、需要と供給をつなげる橋渡しが多岐に渡ってきたことや、特定の人間を介しての取引に頼らなくてすむスピード感があるのだろう。日本では水際対策がなされているといえども、年々違法薬物の輸入量は増加傾向であり、その他の違法薬物よりも安価で購入できる事も拍車をかけている。

2に関しては、大麻取締法違反は、「使用」に適用されるのではなく「所持」に適用される事が背景にある。大麻使用の抜け穴とも呼ばれているものでもある。曖昧で理解しずらいが、自然界に自生する大麻に関しては、その成分が検査によって摘出されたとしても「所持」を伴わないと摘発に至らないケースのあると言う事だ。(ただし、麻薬取締官などから継続的にマークされる事もある)つまり摘発増加の背景には、それ以上の暗数が隠れている事がわかる。

3「ネガティブな気持ちがスッキリする」、「リラックスできる」と使用者が言うように、薬理効果を持っているからこそ大麻使用か継続されるのだろう。個人の抱えている「不安」や「痛み」を一時的に緩和してくれる効果があるからこそ彼ら彼女らは大麻に「依存」してしまい、その薬理効果から逃げる事が困難になる。

まとめ

言うまでもなく、違法薬物の所持や使用は犯罪である。しかし、それらに「依存」する背景には彼ら彼女らの生きづらさが存在するのかもしれない。そこにアクセスしない限り、違法薬物の右肩上がりの摘発件数に歯止めをかけることはできないだろう。

周りを見渡せば、実は身の回りに大麻製品はたくさんある。日本では、産業用に大麻を活用することが一般的で、種や茎の繊維から多くの製品が作り出されている。また、抽出されるオイルは一定の法律のもとで商品化され、普通に売られている。

これまで「葉」に関する効果や効能に関しては、統計的に取り扱われることは極端に少なかった。同時に、これらの大麻使用がより違法で強力な薬物使用のゲートウェイドラッグとなる事も理解しておかねばならない。大麻を軽視するのではなく、脱法・合法問わず薬理効果や副作用の検証も含め、法制度の見直しも適宜必要となってくるだろう。

タバコをやめ続け、10年以上経過している管理人にとっては、もし法律で認められたとしても使用する選択肢は出てこないのかもしれない。しかし、そこに積極的に向かおうとする人たちの心情には何らかのこだわりがあるようにも思えるからこそ当事者たちとの語らいは継続していきたい。



摂食障害の治療のための予備知識講座(家族編)

前回の記事【誰にもバレない、摂食障害の治し】に引き続き、摂食障害に関する疑問と周りの家族が気をつけておくべき3つのポイントについて取り上げる

◆家族が摂食障害になった時に絶対にやってはいけない3つのこと
過食嘔吐は無闇に止めちゃいけない
過剰に反応してはいけない
診察室に入ってはいけない

過食嘔吐は無闇に止めると悪化するので行動を制限する考えは捨てなければいけない。じゃあそのまま放っておくのかというとそうではない。家族は見守るしかできないことを心にとどめておく必要がある。見守る=放っておくではない。否定するのではなく、寄り添うことが最善策となる。摂食障害の当事者に淡々と寄り添い、手を差し伸べる準備を常にしておく。

過食嘔吐の回数が急激に増えたとしても家族は動じてはいけない。反対に過食嘔吐が急に止まったからといって一喜一憂してもいけない。家族や周囲の人間が相談につながることで本人が回復しやすくなると言われている。「本人のためにと思ってする説教やアドバイスにはほとんど効果がない」重要なのは、摂食障害患者自身の回復のタイミングを見逃さないこと。(ただし拒食に関しては命に関わるケースもあるため早期介入が必要)

③家族は、通院についていくだけで構わない。診察室には本人から「一緒に入ってほしい」と言われた時のみ入るぐらいがちょうどいい。主治医と何を話したかなど詮索する必要はない。摂食障害は単なる食の異常行動の問題ではない。親や身近な人間が摂食障害をコントロールしようとすればするほどコントロールを失う。食を契機とする家族全体の問題が関わっていることも多いため、家族がやるべきこととやってはいけないことを主治医や医療従事者と確認しておいたほうがいい。

まとめ
家族や周囲の人間は、当事者の異常とも言われる行動と向き合うのが怖いのだと思う。自身の無力感に耐え切れず、説教や行動規制をしてしまう家族も少なからず存在する。
重要なのは「家族の愛で病気は治らない」と受け入れることが大切になる。私は、摂食障害の家族の接し方ひとつで状況がガラリと変わったケースも見てきた。
家族が抱えすぎないことと摂食障害の悪循環から離れるためにも、まずは家族が周りに助けを求める経験を積み重ねるといい。
摂食障害の家族会の雰囲気を肌で感じることや、同じ境遇の人たちとの「共感や分かち合い」を家族が体験することに大きな意味がある。
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_eat_sub2.html

 





誰にもバレない、摂食障害の治し方

過食、拒食、過食嘔吐・・・
ひた隠しにして症状が悪化した時には強制入院となることが多い摂食障害の諸問題。

彼ら彼女らは、なぜそこまで食べることに固執し、体重計に映し出される数字にとらわれるのだろうか。

体重を減らした先に一体何があるのだろうか。
そして本当に満たしたかったものとは一体・・・

治療法

 この記事を読んでいる多くの人は、当事者であったり家族や知人に摂食障害の疑いのある人がいるのだろう。
治療法こそまさに一番知りたい部分にちがいない。

当事者と関わった経験のある人なら感じるであろう、彼女らの【とらわれ】には共通するものがある。

ストレスなのか、性格の問題なのか、異常なまでの食行動への固執をそばで見ることはこちらの精神がまいってしまう時すらある。SNSでは、過食するであろう食材をカゴいっぱいに買い込んだり、半額シールが貼られ、綺麗に並べられた食品をいったい我々はどれくらい見てきたことだろうか。当事者たちの苦しみと同時に、周囲の人間の負担もそこには見え隠れする。

また、過食とは逆で、ガリガリに痩せ細った身体の画像を載せ、まだ太っているという当事者のコメントには重篤な精神疾患を感じさせる一種の不気味さも感じられるだろう。しかし、その不気味さと同時に、骨と皮になろうが数字にとらわれ一喜一憂している生きづらさや苦しさが伝わるからこそ私はこの記事を書きたいと思った。摂食障害の問題が、一筋縄ではいかないことと、その根深さが伝わってくる。

単に食費がかさむだけの問題では済ませられない。
以前の記事でも取り上げた↓
AERAの摂食障害の記事がチューブ吐きにまで言及!!
の中でも書いたように、摂食障害特有の問題と回復についてさらに一歩踏み込んでこの記事では取り扱いたい。

治療法には大きく分けて3つが存在する。

①対人関係療法

これは【重要な他者との現在に焦点を当てた心理療法】である。一般の人にとっては、何のことだか理解しにくのも仕方ないであろう。しかし、精神科領域の働いたことのある人であれば聞いたことがある人も多いはずだろう。
摂食障害治療において最も代表的な治療法の一つがこれにあたる。
実際にトラブルがあるかないかは置いておき、個人内にある人間関係において、特定のキーパーソンとなる人との関係を見直すことや、問題の背景にある根深いものとの付き合い方を治療の中に取り込むのがこの短期精神療法の特徴でもある。

摂食障害において、薬物療法は対症療法になりうることが多く、当事者の一時的な現在の苦しさを緩和することはあるものの、治療が長期間にわたるケースが多いのも事実だ。病院や治療につながる倍以上の時間が回復するまでにかかるとも言われる摂食障害は、平均して数年単位の回復過程がこれまで示されてきた。

薬物療法と並行して行われる治療の第一選択として、この対人関係療法が大きな力を発揮する。ただ、摂食障害を専門に取り扱う精神科医は極めて少ないのが現実であり、患者が治療者を選べない問題もはらんでいるといえよう。

②認知行動療法

認知行動療法(Cognitive behavioral therapy:CBT)は,ここ15年ほどでよく耳にするようになった治療法のひとつだ。
認知という各々が持っている考え方、捉え方の【クセ】に焦点を当てながら、ストレスへの対処法だけでなく自分の捉え方や枠組みの見直しをする精神療法(心理療法)の一種だ。

元々はうつ病患者に対する治療を契機に、精神科だけにとどまらず幅広い分野での応用がなされてきた認知行動療法は、不安や抑うつなどの様々な症状に対してその認知の捉え方を再学習していく作業を繰り返していく。その中で誤った認知などには別の捉え方を模索したりするなど、現実的で具体的な対策を治療者と一緒に構築していく。

摂食障害だけでなく、不安障害を始め、PTSD(心的外傷後ストレス障害)や統合失調症などへの精神疾患に効果があることが実証されてきている。
摂食障害では、特に自身のボディーイメージに関する認知だけでなく、他者との関わりの中で発生する誤った認知にも焦点づけながら、回復について対処法を考える作業を繰り返す。
あなたの中にある「べき思考」や「どうせ自分なんか」、「見捨てられ不安」、「とらわれ」を治療者と共に取り扱うのがこの治療の関わりとも言える。
例えば、「なぜそこまで食べたい気持ちが膨らむのか」、「満腹になることで得られるものとは」など、考え方の【クセ】にアクセスしながら回復を構築していく。

③ミーティングを通して感じられる共感とエンパワメント

回復に必要なものは自分自身の治療への取り組みとミーティングへの参加と言っても過言ではない。
それほどまでに問題を【共感】することは治療に大きな意味をもたらす。
話すことで癒される人もいれば、聴くことで共感を得られる人もいる。自分自身が回復し、回復モデルになっていくことで周りの摂食障害者にも力を与えてあげられる、それこそが役割(エンパワメント)になるのだと感じる。

ただし、摂食障害や依存問題を抱える人たちの中にも安全な枠を守りきれない人は少なからず存在する。精神科などでは主治医をはじめとした医療従事者(コ・メディカル)がチームとなり枠組みをつくっていく。だからこそ安全な枠組みの中で治療が進む。自助グループなどのミーティングには、メリットとデメリットが存在し「枠がブレてしまう」恐れがあることも理解しておかねばならない。

しかし、それを踏まえてもミーティングに参加することには意味がある。
なぜなら、世の中の摂食障害者に対する病識は極端に低く、「食欲をコントロールできないだけ」、「意志が弱い」、「別に細いんだからいいじゃん」などと心無い言葉を投げかけるだけ投げかけてくる。まさに二次被害といえよう。

だからこそ、治療には【同じ問題を抱えた仲間】が必要になってくる。そういった意味でSNSなどの摂食障害者同士のつながりはとても必要な関係性だと思う。枠がブレる問題をはらんでいるため専門家などが介入すればもっと良いと思うが、自らの力で摂食障害に立ち向かう彼女らは頭が下がる。

まとめ

タイトルにもあるとおり「誰にもバレない、摂食障害の治し方」には少しカラクリがある。それは【ちゃんとした専門家を頼ること】が一番の近道なのかもしれない。

専門家を頼ることや身を委ねることは大事である一方で、依存先が摂食障害(食べ物)から人になるだけでは根本的な解決はできないのではないかとよく感じる。
摂食障害に関する知識がなく、安易に治そうとする当事者たちは、相手が全てを解決してくれるという幻想を持っている人が多いのではないかと感じる。(私見)

頼ることは大切であるが、治療する主体は自分にあることを忘れないことも大切であり、また、回復していった彼女らはそのバランスを心得ていた人たちが多かった。

 

次回以降の目次
◆摂食障害の家族を持つ家族が絶対にしちゃいけないこと
◆なぜ過食嘔吐は止めちゃいけないのか?
◆実は、家族が手放さなきゃいけないことがある




テリー伊藤が槇原敬之に放つ「彼今、情けないじゃん」に感じる違和感

今朝のサンデー・ジャポンを見ていて、テリー伊藤が槇原敬之被告の保釈に対するコメントに
「槇原くんは、情けなければ情けないほどいい曲を作る。」
彼は今情けないじゃん

 

最近のマスコミやワイドショーは、なぜこんなにも人を叩くことが好きなのだろうかと考え出すとテレビの前で頭が痛くなってきた。

いつもと同じ警察署の前で、
いつもと同じ報道陣に囲まれ、
誰に向けてかわからない「申し訳ありません」の言葉を何度もテレビで繰り返して流し、
マスコミやコメンテーターは叩くだけ叩いてそれ以降のケアなどには興味を持たず、
憶測とよくわからない芸能関係者の言葉をもとに、叩けるところを叩いている姿は、まさに「いじめ」の構図そのもののように見えた。

 

この事件は、2年前の覚せい剤取締法違反の容疑で起訴された珍しい事件でもある。さらにいえば、本人から採取した尿からは、違法薬物の反応は陰性だったことからも起訴に至るには珍しい事件でもあろう。所持や共同所持等具体的な内容は今後徐々にわかるだろう。

背景には、「ラッシュ」等の危険ドラッグの流通量の急激な増加などももしかすると関係しているのかもしれないが、ワイドショーなどでは具体的に取り上げず、釈放され頭を下げている場面の繰り返しばかりだった。事実ワイドショーなどでも具体的な経緯などには触れておらず、留置されている間に作詞したとか、個人的なパートナーに関するものが中心で、わざわざ日曜日の朝から取り上げる内容でもないのではと思う浅い情報ばかりだった。

ただ、「マッキー頑張れ~」、「応援するぞ~」などの声援はきっと槇原敬之さんに届いているだろう。

槇原敬之さん自身の依存症に関する回復が、私たちにはどの程度進んでいるのかはわからないが、ぜひ多くの社会資源を活用してひとりで問題を抱え込まないようにしてほしい。そしてまた才能に満ちた曲を聞きたい。




槇原敬之氏の逮捕から見えてくる、芸能人が薬物をやめられないワケ

「薬物を一度でも使ってしまうと、もうやめられない」
「薬物は恐ろしいもので、絶対に使っちゃいけないもの」
「使うと廃人になってしまう」
という昔から言い伝えられてきたような文句が社会の中にはいくつか存在する。
ただ、薬物の依存問題において、それは
半分正解で、半分間違っている

薬物依存の問題は、その他の依存問題とも多く重なるところが多く
完治はしないが、回復することはできる

2年前である2018年の事件で、アーティストである槇原敬之容疑者が逮捕され、新聞やマスコミが悪意を持ち、こぞってニュースを盛り立てている。本人は所持の容疑をおおむね認めているという報道もあるなど、情報が交錯している中で、スポーツ誌などでは、品位が問われるような見出しが並んでいた。

前回の逮捕は1999年、約21年もの空白期間に一体何があったのか。薬物と上手く距離が置くことができていたのか、はたまた単にバレなかっただけなのか憶測が憶測を呼ぶネット上の記事にも一貫性がない。尿の「簡易検査」では、陰性と報じられている中で、槇原容疑者の今後を回復について考えている雑誌媒体は極端に少ない。

半分正解、半分間違いの意味

記事の最初でも書いたように、「薬物をきっぱりとやめている人は、少なからず存在する。」体質が合わない、使ってみたか効果をあまり感じることができなかった、違う薬物の方が自分に合うなど、理由は様々がだ、薬物乱用を繰り返す過程で、薬物依存になる前に薬物から手を引くことができる人も存在するのだ。

依存症になってしまうと治らないの?

薬物乱用を繰り返す中で薬物依存症になってしまうともう病気は治ることはない。
つまり「完治」はしない。
ただ、依存症患者は【回復】することはできる。
現在多くの依存症患者たちが、今日一日を意識しながら薬物をやめることに力を注いでいる。

なぜ芸能人は薬物をやめることが難しいのか

良い依存先を持つことは人生の質を豊かにする。
ただし、誰しもが良い依存先を持っているというわけではない。
今回の容疑の中には「覚せい剤」や「危険ドラッグRUSH」などの所持や使用があった。
これらのような違法なものに関しても、身体的に現れる効果があり、それらは薬物使用を繰り返すことによって強化され学習されていく。

つまり、「使い続ける理由」ができてしまうのだ。

薬物を使わない人たちがストレスを発散するのと同じように、ストレス発散の方法の選択肢として違法薬物が彼らには存在してしまうようになる。

近年、塀に閉じ込めておくコストを考えると、薬物依存症者(単純使用)の社会内での回復が注目を浴びられることも多くなってきた。塀に閉じ込めることでかかる税金よりも、社会復帰に向けた回復の手助けを行うことが長い目で見た時【回復】につながる諸外国のモデルケースがあるのも後押しになっているのだろう。

個人の自己使用に関して非犯罪化の流れもさざ波のようにある中で、当事者たちの回復には「当事者たちの声」が重要な意味を持つだろう。

回復施設や自助グループが問題をすべて解決させてくれるわけではないが、ほとんどの依存症者が【つながらない】現実がある。松本俊彦先生の「助けて」が言えないの著書にもあるように、自ら支援につながることが苦手な彼らに周囲がどんな対応をしてあげられるかを考えなければいけない。

それはきっと叩くことや無理やり反省を促すことではないと感じる。

適切な社会資源につなげてあげたり、選択肢を並べ、一緒に考えていく作業が彼らには必要になるだろう。芸能人だからそこ頼ることができない部分のきっとあるのかもしれないし、それをじっくり共有できる安全な場所は社会には数少ない。

だからこそ、槇原敬之さんやピエール瀧さん、沢尻エリカさんにも治療に結び付いて欲しいと感じる。
もちろん田代、お前もなっ(`・ω・́)ゝ

きっと薬物の問題は、あなたが考える以上のものになっているのかもしれない。だからそこ芸能人じゃなくとも【回復】につながるための努力は惜しまないでほしい。



自分を成長させる【恥】体験を語ることの意味

【恥】感情との付き合い方

「旅の恥はかき捨て」という言葉があるが、あれは恥をかいても大丈夫だと言ってるわけではなく、旅を理由に本来出せない願望を「言い訳のできるもの」にしてしまう大人の汚さだと感じる。

本当にしたいことであれば素面(しらふ)ですればいい。

 

ただ、恥をかきたくないというその思いはどこか共感できるものがある。誰しも失敗なんてしたくないし、できることなら人前で恥はかきたくないもの。だからそこ「恥」という感情はとても扱いづらい感情でもある。特に人の目ばかり気にしている日本人ならなおさらだろう。

 

逆に考えれば「恥」の感情をコントロールできさえすれば、多くの人は自分を自由に表現したり他者の目ばかり気にして生活しなくてすむ。そう考えると「恥」の感情はあなた自身で取り扱えるものにしておいたほうがいい生き方ができるのではないか。

秘密にひっそりと

「こんなこと誰にも言えない」
「本当の自分なんて誰も受け入れてくれない」
「こんなのはきっと自分だけだ」など恥につながる心のセリフを私たちはよく頭の中で考える。

 

結論を言えば
【人間関係で発生する感情は、人間関係の中でしか癒されない。】


つまり「恥」の感情は、適切に、また安全に出せる場が必要であるということ。受け入れられたり、共感してもらったり、否定されないということだけでも大きな意味を持つ。

依存症者の多くは、過去に壮絶な「恥」体験を繰り返してきていることが往々にしてある。それらを適切に表現できる場は、世間にはほとんどないと言っても過言ではない。

あるとすればカウンセリングや自助グループぐらいだろう。しかし、多くの依存症者はこの自助グループにつながるまでに多大な時間を費やしてしまう。

以前自助グループの記事でもかいた
オープン・スピーカーズ・ミーティング のように、助けを求めることが苦手だからこそ依存の問題は複雑化する。その人の捉え方や問題の大きさにもよるが、つながるまで数十年かかる人もいるぐらいだ。それほど「恥」体験を話すことはハードルが高い。

「恥」を受け入れられるものにするためには、もちろん時間がかかる。当事者が「恥」をどのように捉え、どう解消していくかが課題となり、あなたの問題は○○だから軽症だと一概に決め付けることはできない。

自助グループなどのミーティングの役割や効果は、まさにこの点に尽きるだろう。誰にも話せない本音、それを黙って聞いてくれる環境が自助グループには存在し、またこれまでも存在し続けてきた。

」と表現していくのか、自分が歩んできた轍(わだち)と捉えるのか、決めるのは自分自身であり、決して経験はなかったことにはできない。話すこと、吐き出すことこそ回復には必要であり、自助グループなどにつながってぜひ安全に話せる場を確保していってほしいと感じる。それこそ【恥】体験を語ることの意味だと思う。




あなたの子どもをアダルト・チルドレンにしないために

アダルト・チルドレン(Adult Children:以下AC)とは、幼少期に家庭内で深い傷付き体験をした子どもたちが大人になった人のことを指す。

よく「大人のような子ども」と誤解されがちだが、ACは「幼少期大人たちの外圧によって、子どもらしい生き方を阻害されてしまった子ども」といえるだろう。

アルコールや薬物に問題を抱える親のもとで育つと、子どもは様々な葛藤の中で生きることとなる。「親が急に怒り出す」、「家庭をかえりみない」、「家族の約束などを守らない」など親中心の生活に振り回されてしまう。たとえその原因が親にあったとしても子どもはそれをなかなか主張することができず、「自分が悪いから」と問題を自分のせいにしてしまう。

たとえトラウマ(心的外傷)のような体験を親から受けたとしても、それを「親のせい」することができず「自分が悪いから」と結論付けてしまうのがACの特徴でもある。

つまり、自分自身の感情を素直に感じる力が、環境によって十分に育たなくなってしまったのだ。

素直に育つことができなかった子どもたちは、周りからすると一見「とても適応している子ども」に見えたり、「素行の悪い不良」だったり、「優等生」だったりする。

家庭内で起こる様々な問題をまるでなかったかのような振る舞いで、大人たちの目を回避したり、反対に集めたりもする。ACは、不遇とも言われる家庭環境で育った人が多く、自分のことよりも周り中心の生活を送る中で自分の能力を十分に出しきれなかった人が多い。

また、ACは恋人やパートナーを選ぶ際に「問題を抱えている人」を選ぶ傾向もある。自分の生きる環境に問題があったほう安心しやすく、そもそも「私には問題がある人が合っている」や「私がしっかりしなきゃこの人はダメになってしまう」など、自己肯定感の低い人が多いもの確かだ。

浮気や暴力、ギャンブルをはじめ、一般の人が避けるであろうと思われる相手を無意識の内に探してしまう。

呪縛から解放されるためには、過去は変えられないことを受け入れることが大切。
また、世代間の負の連鎖を止めるためにも、自分の育ってきた環境自分がこれから作っていく環境は違うのだということを意識することが生きやすさを作り出す。

自分がされたこと、どうにもできなかったこと、本当はこう思っていたことなど心の中を整理し、新しい考え方やこれからの生き方に目を向けることが回復につながる。

過去大変だった自分を十分愛してあげることが、自分の子どもをアダルト・チルドレンにしないための第一歩なのだろう。