槇原敬之氏の逮捕から見えてくる、芸能人が薬物をやめられないワケ

「薬物を一度でも使ってしまうと、もうやめられない」
「薬物は恐ろしいもので、絶対に使っちゃいけないもの」
「使うと廃人になってしまう」
という昔から言い伝えられてきたような文句が社会の中にはいくつか存在する。
ただ、薬物の依存問題において、それは
半分正解で、半分間違っている

薬物依存の問題は、その他の依存問題とも多く重なるところが多く
完治はしないが、回復することはできる

2年前である2018年の事件で、アーティストである槇原敬之容疑者が逮捕され、新聞やマスコミが悪意を持ち、こぞってニュースを盛り立てている。本人は所持の容疑をおおむね認めているという報道もあるなど、情報が交錯している中で、スポーツ誌などでは、品位が問われるような見出しが並んでいた。

前回の逮捕は1999年、約21年もの空白期間に一体何があったのか。薬物と上手く距離が置くことができていたのか、はたまた単にバレなかっただけなのか憶測が憶測を呼ぶネット上の記事にも一貫性がない。尿の「簡易検査」では、陰性と報じられている中で、槇原容疑者の今後を回復について考えている雑誌媒体は極端に少ない。

半分正解、半分間違いの意味

記事の最初でも書いたように、「薬物をきっぱりとやめている人は、少なからず存在する。」体質が合わない、使ってみたか効果をあまり感じることができなかった、違う薬物の方が自分に合うなど、理由は様々がだ、薬物乱用を繰り返す過程で、薬物依存になる前に薬物から手を引くことができる人も存在するのだ。

依存症になってしまうと治らないの?

薬物乱用を繰り返す中で薬物依存症になってしまうともう病気は治ることはない。
つまり「完治」はしない。
ただ、依存症患者は【回復】することはできる。
現在多くの依存症患者たちが、今日一日を意識しながら薬物をやめることに力を注いでいる。

なぜ芸能人は薬物をやめることが難しいのか

良い依存先を持つことは人生の質を豊かにする。
ただし、誰しもが良い依存先を持っているというわけではない。
今回の容疑の中には「覚せい剤」や「危険ドラッグRUSH」などの所持や使用があった。
これらのような違法なものに関しても、身体的に現れる効果があり、それらは薬物使用を繰り返すことによって強化され学習されていく。

つまり、「使い続ける理由」ができてしまうのだ。

薬物を使わない人たちがストレスを発散するのと同じように、ストレス発散の方法の選択肢として違法薬物が彼らには存在してしまうようになる。

近年、塀に閉じ込めておくコストを考えると、薬物依存症者(単純使用)の社会内での回復が注目を浴びられることも多くなってきた。塀に閉じ込めることでかかる税金よりも、社会復帰に向けた回復の手助けを行うことが長い目で見た時【回復】につながる諸外国のモデルケースがあるのも後押しになっているのだろう。

個人の自己使用に関して非犯罪化の流れもさざ波のようにある中で、当事者たちの回復には「当事者たちの声」が重要な意味を持つだろう。

回復施設や自助グループが問題をすべて解決させてくれるわけではないが、ほとんどの依存症者が【つながらない】現実がある。松本俊彦先生の「助けて」が言えないの著書にもあるように、自ら支援につながることが苦手な彼らに周囲がどんな対応をしてあげられるかを考えなければいけない。

それはきっと叩くことや無理やり反省を促すことではないと感じる。

適切な社会資源につなげてあげたり、選択肢を並べ、一緒に考えていく作業が彼らには必要になるだろう。芸能人だからそこ頼ることができない部分のきっとあるのかもしれないし、それをじっくり共有できる安全な場所は社会には数少ない。

だからこそ、槇原敬之さんやピエール瀧さん、沢尻エリカさんにも治療に結び付いて欲しいと感じる。
もちろん田代、お前もなっ(`・ω・́)ゝ

きっと薬物の問題は、あなたが考える以上のものになっているのかもしれない。だからそこ芸能人じゃなくとも【回復】につながるための努力は惜しまないでほしい。



自分を成長させる【恥】体験を語ることの意味

【恥】感情との付き合い方

「旅の恥はかき捨て」という言葉があるが、あれは恥をかいても大丈夫だと言ってるわけではなく、旅を理由に本来出せない願望を「言い訳のできるもの」にしてしまう大人の汚さだと感じる。

本当にしたいことであれば素面(しらふ)ですればいい。

 

ただ、恥をかきたくないというその思いはどこか共感できるものがある。誰しも失敗なんてしたくないし、できることなら人前で恥はかきたくないもの。だからそこ「恥」という感情はとても扱いづらい感情でもある。特に人の目ばかり気にしている日本人ならなおさらだろう。

 

逆に考えれば「恥」の感情をコントロールできさえすれば、多くの人は自分を自由に表現したり他者の目ばかり気にして生活しなくてすむ。そう考えると「恥」の感情はあなた自身で取り扱えるものにしておいたほうがいい生き方ができるのではないか。

秘密にひっそりと

「こんなこと誰にも言えない」
「本当の自分なんて誰も受け入れてくれない」
「こんなのはきっと自分だけだ」など恥につながる心のセリフを私たちはよく頭の中で考える。

 

結論を言えば
【人間関係で発生する感情は、人間関係の中でしか癒されない。】


つまり「恥」の感情は、適切に、また安全に出せる場が必要であるということ。受け入れられたり、共感してもらったり、否定されないということだけでも大きな意味を持つ。

依存症者の多くは、過去に壮絶な「恥」体験を繰り返してきていることが往々にしてある。それらを適切に表現できる場は、世間にはほとんどないと言っても過言ではない。

あるとすればカウンセリングや自助グループぐらいだろう。しかし、多くの依存症者はこの自助グループにつながるまでに多大な時間を費やしてしまう。

以前自助グループの記事でもかいた
オープン・スピーカーズ・ミーティング のように、助けを求めることが苦手だからこそ依存の問題は複雑化する。その人の捉え方や問題の大きさにもよるが、つながるまで数十年かかる人もいるぐらいだ。それほど「恥」体験を話すことはハードルが高い。

「恥」を受け入れられるものにするためには、もちろん時間がかかる。当事者が「恥」をどのように捉え、どう解消していくかが課題となり、あなたの問題は○○だから軽症だと一概に決め付けることはできない。

自助グループなどのミーティングの役割や効果は、まさにこの点に尽きるだろう。誰にも話せない本音、それを黙って聞いてくれる環境が自助グループには存在し、またこれまでも存在し続けてきた。

」と表現していくのか、自分が歩んできた轍(わだち)と捉えるのか、決めるのは自分自身であり、決して経験はなかったことにはできない。話すこと、吐き出すことこそ回復には必要であり、自助グループなどにつながってぜひ安全に話せる場を確保していってほしいと感じる。それこそ【恥】体験を語ることの意味だと思う。