承認欲求を手放す作業

TwitterやInstagramには、自己顕示欲の塊のような人間が星の数ほどいて、彼ら彼女らは「いいね」をもらうために日々身を削っている。時には過剰にも思われる肌の露出やきわどい写真、見たこともないような高いお肉の写真を載せながら自分の価値を必死に高めている。

いやっ、実際には高めているかのように振舞っているのが大半なのかもしれない。フォロワーの数やいいねの数に左右されながら、人の目ばかり気にしている。

生きていくためには、周りにどう見られているかを意識することは大切であるが、果たしてTwitterに投稿される承認欲求を野放しにしておいて、私たちは本当の幸せを手に入れられるのか。また、そのような呪縛から解放されるには、何を考え、どう行動していくべきかについてこの記事では取り上げたい。

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人の目を気にしない3つのポイント

誰もあなたに関心なんて持ってないことを知る

まずはここに気づくことがあなたの悩みの負担を減らすだろう。学校のクラス、職場、バイト、SNS、人間関係は多様に存在するが、周りの人はあなたのことにあまり関心をもっていない。
つまるところ、人は自分のことで精一杯なのだ。
そういう意味では、刹那的な思いを掃き溜めのように積み上げていくTwitterなどは、ストレスのはけ口としては有効だろう。
(ただ。発言したと言う事実は残るが)

誰も注目していないのであれば、あなたの好きに生きればいい。

たとえ失敗したとしても、誰もそこまで気にしてないし、そのことを鮮明に覚えているわけでもない。周りからしたらあなたも他人のひとりであることを心にとどめておくだけでも心がスッと軽くなるだろう。できることなら失敗は避けたいものだが、それに囚われて身動きがとれなくなる人もきっと多いだろう。

少しでも生きやすい生き方を選択していくことがあなたらしく生きることにつながり、しいては生き方そのものを変化させる。人のためのTwitterではなく、あなたがしたいことの表現がTwitterで表現されるのを切に願う。

②問題は分化して、コントロールできるものとできないものに気付く


問題が山積みになると、今どれが優先すべき問題かなどを見失ってしまう。さらにいえば、その問題が果たして自分の問題なのか、相手の問題なのかを見極めていく必要も出てくる。
「そのストレスは本当にあなたが抱えなければいけないストレスか」を問い直すことで見えてくるものがあるかもしれない。多くの人達がここで巻き込まれてしまう。抱えなくてもいい問題まで背負ってしまい苦しくなる。

家族問題を例に挙げると、父親や母親のいいなりになっていたり、機嫌を伺うような必要以上の配慮をしていないかどうかを見直してみるのもいい。あなたが成人ならなおさらだ。経済的に家族からの支援が必要な場合も多々あるが、だからといって奴隷になる必要はない。

親の機嫌は親自身が取ればいいわけで、子どもの役割ではない。固定化しやすい家族問題などでは当事者は身動きが取れなくなることが多い。だからといって親の問題まで抱え込まなくてもいいことを頭に入れておいたほうがいい。




加えて、その問題がコントロールできるものかそうでないかを判断していくスキルが必要になってくる。コントロールできない問題をコントロールしようとすると、そこに無理が生じてさらなるドツボにはまりやすい。

人間関係を例に挙げると、相手が自分をどう思っているかなどは、コントロールできないものであることを理解しておく。反対に、自分がその相手にどう振舞うかなどは、自分の「行動」なのでコントロールできるものだとわかるだろう。
問題の分化(分けて考えること)は問題の本質を見失わないためにも必要であり、人の目を気にしないためには、自分の問題に焦点を当て取り組むことが求められる。

③選択できる自分に気付くこと


コントロールできるものに集中すること。
つまりは「自分の行動」に集中することが生きやすい生き方につながる。
それが失敗しようが成功しようが、行動したことに対する事実は残る。
人の目の呪縛から解放されるには、人にどう見られているかよりも「自分は何をしたか」という主体性を大切にしていくこともひとつの選択肢だ。
これらからわかるように、私たちの目の前には選択肢が実はたくさん存在する。しかし、メンタルが弱っていたり、そもそも抑圧されて育ってきた人達にとってはその選択肢が見えなくなってしまっていることがよくある。

それゆえに行動に関しては、「できるだけ確実に実行できる行動」から始めるといい。失敗しないように、確実にできるスモールステップがあなた自身の自尊心を着実に外側から固めてくれる。今の現状を十分にアセスメント(査定)しながら適切な課題設定をすることが承認欲求に囚われないコツでもある。

まとめ

まず多くの物事は、あなたが選択できるということを知っておく。周りの評価は付きまとうものであるが、あなた自身の評価を決めるのはあなた自身だということに気付けば背中の荷物は少し置いておくことができる。
感情だってそう。
相手の感情を無理やり変えるのは、魔法使いでもない限り無理だろう。
だからこそ、せめて自分の感情は自分で決められるということを知っておくことこそが生きやすい生き方につながる。
Twitterなどの簡単に得られる承認欲求はまさに「麻薬」。
しかし、簡単に手に入れられるものは簡単に失ってしまいやすい。
大切に育て上げる承認欲求を積み上げていきたいものだ。






よく聞く依存症回復の為の12ステップってなあに?

依存症治療につながった人たちなら一度は聞いたことがあるこの12ステップという言葉。なんかややこしそうで、宗教っぽくて、とっつきにくいなと私が感じたのも正直なところ。しかし、どうやら歴史もあるようで、回復の手助けになってくれるこの12ステップ。果たしてこの記事を最後まで見た人たちは、どのように感じるのだろうか。

AA(アルコホーリクス・アノニマス)


自助グループのおおもととなる当事者たちの団体。匿名性が重視され、団体といっても団体としての意見を持たない回復の為の自分たちが運営する集まりとして位置づけられる。
アルコールをやめる(断酒)するために、お互いの飲酒体験を語り合い、今日一日断酒していくことだけを目標に集まる仲間たち。
それぞれの体験に口出しするのではなく、言いっぱなしの聞きっぱなしのミーティングは今日もどこかで行われている。1935年にオハイオ州で始まったのがきっかけで、脈々と全国各地で行われている当事者たちの活動。多くの依存問題に共通する12ステップに各々が向き合っていく作業。12ステップこそが回復への第一歩であり、多くの回復者たちがこの問題に取り組んできた。AAの「アルコホーリクス・アノニマス(通称ビックブック)」にはその内容が詳しく示されている。


多くの依存症者がつまずくステップ1


この記事では12ステップ全部は取り上げない。
なんならステップ1しか取り上げない。
多くの人が、まずこのステップ1を乗り越えられないからだ。

「いやいや、ステップ1からつまずくなんてやる気あるの?ステップ1なんて最初の第一歩でしょ。」
こう思われる方が多いのも事実。
しかし、思った以上に難しいのがこのステップ1。

ステップ1
『私たちはアルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。』

自分が依存症であることを認める作業こそが、最初の一歩であることを示している。ただ、自分が依存症であることを心底認めるということは辛い作業でもある。

否認の病といわれる依存問題


誰しも依存症だと言われればいい気持ちにはならないだろう。
「自分は愛好家だから大丈夫。うまくコントロールできている。もっとひどい人を私は知っている。」などいくつもの依存を認めない言い訳を探してくるだろう。

ただ、本当の依存症患者は理解していると思う。

ステップ1で示されている様に、自分の思い通りの生き方ができなくなっていることに。依存症は否認の病であり、自身の問題性を認めるところから回復が始まる。



Q,ではなぜ依存症者は否認してしまうのか。
それは依存を認めてしまうと、全てを否定されたかのように感じる人も多いからではないかと私自身は感じる。認めることが全てを否定することにつながるのであれば、やはり認めたくない気持ちもややわかる。
だからそこステップ1が一番つまずきやすい。
自分の依存に関する問題を心底認められている人は回復に向かいやすい。
依存問題を目の前に「自分は無力だ。」と言えるかどうか。
回復に身を委ねられるかが12ステップの最初の壁だと思う。

ところで、この記事を読んでいるあなたは、自分の依存に関して何を思いますか?




愛では依存症は治りません。治すためには○○が必要!!

依存症とは、いわばブレーキの壊れた車に乗っているようなもの。ぶつかるまで止まれない。そして、大クラッシュした時には、周りに多大な迷惑をかけてしまう。そこに愛の力が入る余地はあるのか。また、入ったところで本当に治るのか。

残念ながら


愛では依存症は治らない。
むしろ愛という曖昧なものが依存症を悪化させる原因にもなる。
むかし、薬物で逮捕されたAさんの先輩が「もう二度と薬物なんかに手を染めないようにヤキを入れて根性を入れ替えさせてやりますよ。」などと、愛の力で問題解決を図ったという。しかし、そのAさんは再逮捕され刑務所に収監されることになった。

この先輩の愛は果たして本物だったのだろうか。

私はきっと本当の心配からくる純粋な愛だったと思う。
しかし、なぜAさんはこの愛では更生できなかったのだろうか。
先輩の愛が足りなかったのだろうか。
ヤキの効果が弱かったからまた薬物に手を染めたのではないか。


説教なんかじゃ響かない


説教や叱責によって相手は一時的に依存から離れられた様な錯覚を覚える。しかし、その錯覚からあっという間に目覚め、「この人の前ではやめておこう」などという考えが生まれやすい。依存症者もバカじゃない。反省の色とうまい言い訳さえあれば大概の人は騙せてしまう。
つまり依存症に関して説教は効果を発揮しにくい。

Aさんの薬物依存に関しては、精神依存が主な症状であるため、目に見えた依存症状はさほどでない。つまりは外から見たところで依存に問題を抱えているなんて見分けがつかない。
反省の思いや薬物をやめようとする気持ちがあったとしても、精神依存はそれらのハードルをいとも簡単に越えてしまう。
一旦依存症になってしまうと、気持ちや意志の強さだけでは回復できない。

できもしない約束をさせる周りが悪い?

はい。まさにその通り。
その辺りから本人への対応を見直す必要があるでしょう。

あなたは慢性の糖尿病患者に
「気持ちを強く持てば病気は治る。ヤキ入れてあげるので何とか血糖値をコントロールしてください。」とは言わないはず。

本人の意志は、依存症から回復するためのきっかけには利用できても、やめ続けるための強力な武器とはなりにくい。

そもそも、できもしない約束を取り付けたとしても、周りは裏切られる体験を重ねてしまうだけである。そんな約束で関係が悪くなるのであれば、きっとそれは今の本人には荷が重すぎる課題なのだろう。
課題が失敗→関係が悪化→依存症から回復する気持ちも減少。
負のスパイラルから抜け出すためには、適切な課題設定が必要。



周りがする課題、本人がする課題

家族は本人との境界線を十分意識して手を引くことが大切。つまりは手放す準備をしていかなければいけない。手放すことは見捨てることではない。本人のペースはどれぐらいかを専門家と話し合ったりして見守る必要がある。
そしてこの見守ることがめちゃめちゃ難しい。
口を出したい、責めたい、やり方が悪い、そんなんじゃダメだなどと言いたくなる気持ちを抑え、グッと耐えなければいけない。
その過程で多くの人間が巻き込まれる。
良かれと思って言った言葉や行動が裏目に出てしまう。結果、関係はさらに悪化してしまう。だからこそ本人の問題は本人に返そう。

余計なおせっかいは依存症をさらに維持させる原因につながる。
家族は本人との境界線をしっかりと引くことを肝に銘じておかなければいけない。
共依存からの抜け出し方

本人の課題は明確である。
その日一日を何とか乗り切るための方策を考えること。
依存症にもよるが、年単位や数か月単位の目標など立てなくてもよい。今日一日をどうやってその依存症と離れられるかを考えること。そこだけに力を注ぎ込む必要がある。

失敗してもよい。
次の日をまた一日目とカウントしながら依存症と向き合えばいい。
回復することを諦めないのが一番重要なこと。






摂食障害になる子ってどんな子?

不合理とも言える食行動を繰り返しながらも、その行為に依存し、命を危機的な状況にまで自ら追い込んでいる摂食障害者には、なにか共通するものがあるのではないか。また、摂食障害になる子の特徴には、どういう背景が隠されているのか知りたくありませんか?

 

性格と摂食障害

多くの摂食障害や依存に関する論文では、ある程度の通説と呼ばれるものがあります。そしてその特徴のひとつとして、「昔から手のかからなかった真面目な子」が挙げられます。なぜ真面目なのに病気になっていくのか。そもそも、真面目な性格と病気って関係あるのか。などと感じる人も多いでしょう。ここで書かれている真面目さにはどのような意味が含まれているのでしょうか。今回は、摂食障害になりやすい人の特徴と、その原因について触れていくことになるでしょう。
食べることで一体何を満たしていたのか、果たして本当に満たしたかったのは食欲なのか。食べ続けることは簡単でもあり苦しいことでもある当事者に共通する課題とは何なのか。
異常な食行動に固執してしまう背景にはどんな機能が働いていたのかに迫ります。

 

どういう過程で摂食障害が展開するのか

主に摂食障害は、10代~20代前半の女性に発症することが多く、男性の10倍ほどの発症率が示されている。今でこそSNSなどで公言する人もいるが、昔は今以上に隠れてこっそり生き抜いていたのだろう。
過食症を例に挙げると、その食べる量は通常の買い物とは思えないほどの量を購入する傾向がある。ひとつの家族が菓子パンなどを購入する際、食パンや人数分の菓子パンを買うのが一般的なものだとしたら、過食症患者が買う菓子パンの量はその何倍にもなる。もちろん人それぞれ過食の量に差はあるものの、買い物かごいっぱいの菓子パンは通常ではありえない違和感を感じる。まさかこの量を一人で、また1食で食べてしまうなどと誰も想像できない。

 

当事者たちは病識を持っているものが多く、知的にもやや高い印象を私個人は持っている。病識(自分が病気であるという認識)をもち、問題を大きくさせないように努力を重ねながら生活している人たちを私は知っている。そして、自分の食べる量が異常であるという認識も充分持っている人が多い。

もにも関わらず、発症初期段階から精神科に関わる割合は少ない。
以前取り上げた記事にも、過食嘔吐に共通する【他人を頼れない病い】が根底にあるのかもしれない。
カショオ女子 ~摂食障害にみられる関係依存の問題

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食欲には抗えない

過食のケースについて考察すれば、彼らの食欲は一種の囚われを感じさせるほどの勢いがある。
詰め込むまさにそんな感じだ。
ひとつひとつの食材を味わって食べているようにも感じるが、むしろ何か感じることを鈍麻させるかのごとく食べ物を次から次へと胃に押し込める。食欲のスイッチが一度入ってしまえば止まらなくなる。自分の意志ではもうどうにもならないほど『食べたい』思いと『本当はもう食べたくない』というアンビバレント(両価的)な感情に支配され、スーパーなどに向かってしまうのだ。

摂食障害者の中には、『どうせ吐くから』と言って万引きする者もいるが、物事の善悪を理解している人や社会性に優れている人も圧倒的に多い。
しかし、食費が馬鹿にならないのも確かで、当人たちはスーパーなどの半額の時間帯を考慮に入れながら食べる活動を維持させる。

 

食べることで満たされるもの


感情に鈍感な人というよりは、感情を表に出さない人が多いのではないだろうか。多くの問題を自分だけで抱え込み、誰にも頼らず、甘えず、本当は助けを求めたい感情を食べ物で押し込めているのではないだろうか。
まさに、『真面目』そのもの。
本来違った形として出てきて欲しいこの真面目さが、食欲とつながってしまっていることこそが問題をより複雑化させる。
食欲が満たされると安心感や不安な気持ちが軽くなる。一時的であろうが、問題を棚上げできるという効果こそが当人たちの求めていることだったりする。

つまり、癒してもらうためには過食することが必要だったということになる。依存症問題に出てくる『自己治療仮説』がまさにこれにも当てはまるだろう。
過食を維持できているからこそ生きていられるということ。

病気を理解していない周囲の人間にとっては、ただ食べて吐いているだけに感じるだろうが、この行動にも重要な意味が隠されている。

食べることを止めることは死を意味すること

だからこそ、摂食障害者の行動は無理に止めてはいけない。
説得したり、言いくるめたところでその行動は止まらない。
過食するからこそ生きていられる患者がいるということを理解しておかなければ、当人を助けるつもりで言った言葉が鋭利な刃物となり、寿命をさらに縮めることにつながる。

本来抱えていた食べたくなるような感情に向き合う時間を主治医などとしっかり話していくことこそが治療なのではないか。
処方薬を出されるだけの、3分診療になっていないだろうか。

本来真面目でいなくてはいけなかった問題には着手できているのだろうか。

自分の問題が維持していることの意味や人に頼れない背景についても語られているのだろうか。

処方薬も大事であるが、精神科だからこそできる治療につながっているかを再確認したほうがいい。

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なんで家族って私をあんなに監視してくるの?

この言葉は、とある依存症患者が何度もつぶやいていた言葉で、私に強烈な印象を残した。この言葉には、「なぜこんな苦しい思いをしているのにさらに家族は私を苦しめるのか」という裏のメッセージがきっと含まれていたのだろう。実際に依存症患者は、家族に監視されているかと言われれば「監視されている」と私は思う。それはなぜなのか。

①そもそも家族はあなたを信用してない

それもその筈、家族からすると裏切られた記憶のほうが圧倒的に強いからである。家族も何度となく本人の「今回だけ」を信じてきただろう。しかし、その約束は、いとも簡単に破られ、時間をかけて関係性は悪化の道をたどってきた。本人の病識(自分が病気であるという自覚や病気に関する理解)の有無が回復には重要な意味を持つように、家族からの支援も回復には重要な意味を持つ。
その家族が常に疑いの目であなたを見てくると、あなたのエネルギーはどんどん減っていく。これほど辛い思いをしながらも、依存症患者自身が家族に歩み寄らなければならない現実がある。
しかし、残念なことに患者自身はそこまでのエネルギーがないことが多い。理解を得ようにも家族が機能していなかったり、そもそも援助希求能力(素直に助けを求める力)が極めて低いため、事態が大きくなってからでないと助けを求めることができない者も多いだろう。
結果として、多くの家庭で監視の目がこれまで以上にひかり輝き、負のスパイラスが構築されてしまう。信頼を取り戻すためには、時間がかかり、かつ、時間をかけたからといって簡単に回復するものでもない。

 

家庭環境が機能していない

家族が信用してくれないのと並行して、そもそも家族が家族として機能していない場合がある。機能不全家族と言われるものがそれにあたる。要するに、家族が不安定で、家族という機能を果たせていない場合、家族がそもそも助けを求められる存在になっていない。
子どもの頃に当たり前のように起こる感情や問題を感じさせないようにしたり、安全に愛され、受け止められる体験を十分に持てなかった家庭では頼ろうにもどうやって頼ればいいかわからないだろう。もちろん完璧な家族がいいというわけではない。しかし、本来頼れるべき相手がいるにも関わらず、頼れない場合、本人は自立を余儀なくされる。
そのくせ問題を起こすなと言わんばかりに監視し、文句ばかり言ってくる家族がある場合、もうそれは不幸でしかない。

家庭内では真面目で気を遣いながら、親の顔色ばかり気にして「いい子、真面目な子」を演じてきた子どもにとっては、「真面目でいること自体が自分の存在価値になっている」者もいるだろう。子どもの感じる息苦しさは、時として症状に現れ、SOSサインに気付きながらも落ち着いていることを理由に現状維持してしまっている親はまさに毒親といえるだろう。

家族が重い足かせとならないように、機能不全家族に関しては、適度な距離感を保つ必要がある。

監視の目から逃げるためには

①手っ取り早いのが「行動で示すこと」
あなたがどんなに頑張ろうとも、目に見えない成果を家族は認めてくれないことが多い。逆に考えると、今日頑張れたことの積み重ねがあれは信頼は時間をかけて取り戻せるかもしれない。
じゃあどんどん行動すればいいかと言われるとそうでもない。コツは失敗しない自分に合った少しの努力でできる行動を維持すること。周りは信じてくれなくてもそれを維持しながら成功体験を積み上げることが自己肯定感を少しだけ押し上げることにつながる。今日、今、この瞬間頑張れている自分を受け止めること。それは依存症問題だけでなく、他の疾患にも適用することができるかもしれない。

②そもそも家族に期待しない
過度な期待を家族に持つべきではない。
理解者を家族だけにしてしまうと、不健康になるだろうし、家族に頼らないことも重要なのではないか。ただし、それは家族と断絶すればいいというものでもない。つまり自分で立って人生を歩むことに力を注ぐほうが、より良い生き方ができるかもしれないということ。
「若者よ準備せよ」自分で立つということは現実に打ちのめされるリスクを孕んでいる。まあ、そんなときは同じ問題を持つ仲間に頼るなどしてみてもいいのではないか。




なぜ依存症者は恋愛禁止と言われるのか・・・

同じ依存を持つパートナーと付き合うことは、リスクを高めます。
依存問題を抱える人ならこのニュアンスなんとなく伝わるのではないでしょうか。同じように失敗を繰り返し、同じように底付きに向かっていく・・・そこには「孤独」ではなく、一緒に落ちていく心地よさがあるのかもしれません。

依存をテーマにした映画 28DAYS


2000年に公開されたアメリカの映画です。サンドラブロックが主演で、お酒や鎮痛剤依存の回復過程がリアルに描かれているこの作品。一見、生き生きとした生き方を描いているようで、周りの迷惑などお構いなしの主人公。更生施設で28日間自分の依存問題に向き合いながら依存の大きな波に飲まれてもなお抗おうとする。禁断症状に苦しむ一方で、スリップを繰り返し、なんとかその場を乗り切りながら依存問題に徐々に向き合っていく。根っこの部分なんて変えるつもりはない主人公が、同じ依存の問題を抱える患者と少しずつ心を通わせる中で何かを感じ取る。作中に描かれる依存に関する否認の問題は入院患者だけでなく、多くの人が抱える問題。依存と向き合うということは、自分の人生の問題に着手しなければいけないということがひしひしと伝わってくる作品。

恋愛禁止なわけ

「薬中は薬中と付き合うと再使用のリスクが高まってしまう。」
回復過程では誰と付き合うか、誰と深く関わっていくかまで意識しておく必要がある。
特に恋愛が関わってくると問題性は複雑化する。
できる限り同じ問題を抱える人との付き合いは避けておいたほうがいいというのが定石だったりする。

ラストの言葉が表す重さ(ちょっとネタバレ)

少しネタバレになるが、回復施設長のとてもいい言葉がある。
いつからデートしてもいいか。おおざっぱな見解だけど、家へ帰ったら、なにか植物を買ってくるといい。……一年経ったら、こんどはペットを飼う。さらに一年経って、もしその植物もペットも生きていたら、そのときには誰かと付き合っても大丈夫。」この言葉を字幕で見たとき、本当に依存問題の根深さを感じた。映画の中でサンドラブロックはある程度良好に回復したかのようにエンディングを迎えるわけだが、現実はそんな簡単なものじゃない。
いつでも失敗するリスクを伝えているこの言葉は、一時的な回復に惑わされないよう導いてくれているのかもしれない。
それほどまでに依存の問題は根深く人生の問題でもあるということが伝わるだろう。

追伸

日曜ドラマの「あなたの番です」が最終回を迎えましたね。
直前に考察動画などYouTubeで見ていたため、じっくり味わいながら見ることができました。海外ドラマを意識した半年スパンのこの作品。ドラマ業界がまだ変化を迎えようとしている兆しが少し垣間見れた。


依存症者のスリップなんてよくあること★

スリップと聞いて最初に頭に浮かぶのは車の運転ではないでしょうか。
道路が凍結した日などに危ない思いをした人も多いはず。
しかし今日扱うのは依存症者のスリップのお話。

再飲酒・再使用・過去の自分に逆戻り


スリップとは、まさに一時的なつまずきなのです。
そして、依存症患者においては、この一時的な失敗体験は割とよくあることでもあります。本人の心の中には「失敗しないように自分の依存問題を克服していきたい思い」と「まだその依存問題に浸っていたい思い」が混在しています。いわゆる、アンビバレント(両価性)な感情が渦巻いています。まさにその通りで、やめようと思ってやめられるなら病気にもならない訳ですし、わざわざ失敗していく人はいません。この様な心の微妙な動きを理解してくれない人が周りにいると当事者はさらに辛い思いをして孤立してしまうでしょう。

「なんでもっと頑張らないんだ。」
「意志が弱いからだ。強くなれ。」

・・・良かれと思って言っていることでしょうが、完全に悪い対応をしてしまっていますね。
依存症者にとってスリップは当たり前のように訪れることを知識として頭に入れておく必要があります。

じゃあ失敗してもほっとけってこと?怒


半分正解ですね。
援助者はいちいち失敗を問い詰める必要はないでしょう。失敗してしまったことは本人が一番よくわかっているはず。怒ったところで問題が解決するなら怒ればいいのですが、依存症はそんな簡単に解決しません。
しかし、じゃあ完全に放置すればいいかと言われるとそうでもないのが依存問題の難しいところ。彼ら彼女らを孤立させてしまうと問題が悪化してしまうのも事実。周囲の人間が巻き込まれないように関わっていくことが大切。本人には治療に結びついてくれるよう促しながらも、孤立させないよう工夫していく必要があります。
「家族の対応が悪いのでは」と気に悩むことはありません。依存症とはそういう病気です。家族や周囲が感じる怒りやもどかしさなどのモヤモヤを、責める方向に使うのではなく、より治療に結び付けることが回復の一助になると言われています。

スリップはチャンスなのか

まさにその通り。周りに依存症問題を抱える人が失敗を語ったときは、語れたことを褒めてあげましょう。失敗したことを正直に話せることが一番大事。鉄は熱いうちに叩けと言われますが、依存症者にとって熱くなっているのがこの瞬間でしょう。
ただし説教は厳禁。
本人が依存性問題に直面するこの瞬間を大切にしてあげる。
できればスリップした誘引や今後の対策について話し合えればなおさらOK
失敗を安全に話せる自助グループにつなげられるなら、その人はきっともう回復の道のりを歩き出していることでしょう。
大切なのは孤立させないこと。
もし違法薬物を使っていたとしても通報するよりは治療に結び付けてあげるほうが有意義な時間を過ごせるはず。
それほどまでに依存症のスリップ体験は多くのものを失ってしまう。




モラハラ旦那、離婚を言い渡される

○○ハラスメントといった多くの言葉が生み出されてきた平成が終わり、令和になって早4ヶ月になるでしょうか。今日はモラハラ(モラルハラスメント)という言葉にフォーカスを当てていこうと思います。

モラルハラスメント

モラルハラスメント(通称モラハラ)は心理的な苦痛を与えられている状態として表されます。特に、ドメスティックバイオレンス(DV)に分類される事例が理解しやすく、被害者をモノのような扱いをしたりすることが顕著に表れるようです。夫婦間のような固定化された関係や閉鎖的な生活環境ではモラハラは生じやすいと言われます。家庭内の人間関係は社会に比べて優劣が構築しやすく、変化しにくい人間関係の中では「モラル」というハードルが曖昧になりやすく、問題をより根深くさせます。身体的虐待のように外傷が残るわけではないので、問題が顕在化しにくく、言葉や態度といった形で問題が維持されやすいのが特徴。放っておくと社会問題に発展しつつある問題でもあり、一昔前には男性からのモラハラが一般的だったが、今や性別を問わず人間関係の問題になりつつあるのが現状です。

モラハラを理由に離婚を考えている人必見

 

離婚の原因の上位にも食い込もうとしているこのモラハラ問題。付き合っていた時には見せなかった相手の別の顔が、結婚を機に表面化することがあるようです。加害者は外面がよく、周りに気付かれないように人を支配することが得意なようです。
いつの間にか問題の原因はあなたになっていませんか?
モラハラを行っている当事者はその自覚を持っていないことが多く、本気で自分は悪くないという狭い視野でしか物事を見れなくなっていることも多々あります。「離婚して初めて相手のありがたさがわかった」という言葉の裏にはもしかするとモラハラ問題があったのかもと深読みしちゃいますね。
余談ですが、「バツ1の男はいいが、バツ2以上の男はなにか問題を抱えている」という言葉もなんとなく言わんとしてることが伝わってきます。

まずは証拠を残しましょう。
動画や録音でも構いません。
自分の身を守るための行動に出ることが大切です。
しかし、何度もモラハラを繰り返されてきた人はその感覚がマヒしてしまっていることもよくあります。「私さえ黙っていれば」、「大事にはしたくないし」、「我慢しなくちゃ」などと、自分の身を守っているつもりが相手を守ってしまっていませんか。
今の時代スマホで録画録音機能がついていない機種なんてほぼありません。過去に暴力(肉体的・精神的)を振るわれた証拠が、のちにあなた自身を守ってくれるものになると思います。
また、日記などのアナログな記録も裁判などでは大切な証拠となるようですね。

起きるものだからこそ対策を

モラハラってDVに限らずいろいろありますね。ネットで相手を必要以上に叩いたり、血液型によって相手を見下したり、無理やりアルコールを飲ませるアルコールハラスメント、体臭などのスメルハラスメント。
特に大学などで起きやすいといわれるアカデミック・ハラスメントなどは厳しいゼミの先生についてきた私自身も似た経験をしてきました。
○○大学の○○先生といった影響力と力のある教授のゼミ生などは、もっと大変なんだろうなあ・・・
どこでも起きやすいこのハラスメント問題への対策は、まずは「自衛」することでしょうね。きっと初期段階で誰かに助けを求めたり、相談しておくことが自衛の第一歩でしょう。
訴えることのできる人は、まだ元気が残っている人。
ハラスメントによって感情が麻痺してしまうと訴える意欲すらも削ぎ落とされてしまうようです。

愛があれば乗り切れる?
果たしてそうでしょうか?
モラルと愛はまた別次元のものだと私は個人的に考えます。
これを機に自身のモラルを省みることが出来る人は、多分まだ引き返せますよきっと。危ないのは視野が狭くなり、周りが見えなくなること。
これまでの過去がどうだったかと同時にこれからどうあるかも考えていきたいところですね。




追伸

いつの間にかもう9月。
これはあっという間に年末になっちゃいますね。
8月中に10本記事あげる課題はクリアできませんでした(泣)
できなかったけど、そういう課題を意識しながら今月も取り組みたい。
維持って本当に難しいなと肌で感じております。