なんで家族って私をあんなに監視してくるの?

この言葉は、とある依存症患者が何度もつぶやいていた言葉で、私に強烈な印象を残した。この言葉には、「なぜこんな苦しい思いをしているのにさらに家族は私を苦しめるのか」という裏のメッセージがきっと含まれていたのだろう。実際に依存症患者は、家族に監視されているかと言われれば「監視されている」と私は思う。それはなぜなのか。

①そもそも家族はあなたを信用してない

それもその筈、家族からすると裏切られた記憶のほうが圧倒的に強いからである。家族も何度となく本人の「今回だけ」を信じてきただろう。しかし、その約束は、いとも簡単に破られ、時間をかけて関係性は悪化の道をたどってきた。本人の病識(自分が病気であるという自覚や病気に関する理解)の有無が回復には重要な意味を持つように、家族からの支援も回復には重要な意味を持つ。
その家族が常に疑いの目であなたを見てくると、あなたのエネルギーはどんどん減っていく。これほど辛い思いをしながらも、依存症患者自身が家族に歩み寄らなければならない現実がある。
しかし、残念なことに患者自身はそこまでのエネルギーがないことが多い。理解を得ようにも家族が機能していなかったり、そもそも援助希求能力(素直に助けを求める力)が極めて低いため、事態が大きくなってからでないと助けを求めることができない者も多いだろう。
結果として、多くの家庭で監視の目がこれまで以上にひかり輝き、負のスパイラスが構築されてしまう。信頼を取り戻すためには、時間がかかり、かつ、時間をかけたからといって簡単に回復するものでもない。

 

家庭環境が機能していない

家族が信用してくれないのと並行して、そもそも家族が家族として機能していない場合がある。機能不全家族と言われるものがそれにあたる。要するに、家族が不安定で、家族という機能を果たせていない場合、家族がそもそも助けを求められる存在になっていない。
子どもの頃に当たり前のように起こる感情や問題を感じさせないようにしたり、安全に愛され、受け止められる体験を十分に持てなかった家庭では頼ろうにもどうやって頼ればいいかわからないだろう。もちろん完璧な家族がいいというわけではない。しかし、本来頼れるべき相手がいるにも関わらず、頼れない場合、本人は自立を余儀なくされる。
そのくせ問題を起こすなと言わんばかりに監視し、文句ばかり言ってくる家族がある場合、もうそれは不幸でしかない。

家庭内では真面目で気を遣いながら、親の顔色ばかり気にして「いい子、真面目な子」を演じてきた子どもにとっては、「真面目でいること自体が自分の存在価値になっている」者もいるだろう。子どもの感じる息苦しさは、時として症状に現れ、SOSサインに気付きながらも落ち着いていることを理由に現状維持してしまっている親はまさに毒親といえるだろう。

家族が重い足かせとならないように、機能不全家族に関しては、適度な距離感を保つ必要がある。

監視の目から逃げるためには

①手っ取り早いのが「行動で示すこと」
あなたがどんなに頑張ろうとも、目に見えない成果を家族は認めてくれないことが多い。逆に考えると、今日頑張れたことの積み重ねがあれは信頼は時間をかけて取り戻せるかもしれない。
じゃあどんどん行動すればいいかと言われるとそうでもない。コツは失敗しない自分に合った少しの努力でできる行動を維持すること。周りは信じてくれなくてもそれを維持しながら成功体験を積み上げることが自己肯定感を少しだけ押し上げることにつながる。今日、今、この瞬間頑張れている自分を受け止めること。それは依存症問題だけでなく、他の疾患にも適用することができるかもしれない。

②そもそも家族に期待しない
過度な期待を家族に持つべきではない。
理解者を家族だけにしてしまうと、不健康になるだろうし、家族に頼らないことも重要なのではないか。ただし、それは家族と断絶すればいいというものでもない。つまり自分で立って人生を歩むことに力を注ぐほうが、より良い生き方ができるかもしれないということ。
「若者よ準備せよ」自分で立つということは現実に打ちのめされるリスクを孕んでいる。まあ、そんなときは同じ問題を持つ仲間に頼るなどしてみてもいいのではないか。




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